『放課後給食タイム』

放課後の校舎。

それまでの喧噪が嘘のように静まり返った中、九条沙々羅はただ一人、教室に残っている。

沙々羅にとって悪夢のようなこの状況は、前日の終わりの会でクラスメイトの発した言葉が発端であった。

一日を締めくくる終わりの会。

まず始めにクラス担任の光信基子による、連絡事項の通達とプリントの配布。明日の時間割の再確認に続いて、いつものように「忘れ物をしないように」との一言に、クラス中が「はい!」と元気よく声を揃えて返事をすると、基子は満足げに頷いた。

「それじゃあ最後に……誰か」

「はい!」

基子が全てを言い終えるより早く、よく通る声と真っ直ぐに伸ばされた手で強くアピールする少女がいた。

泊久美子という名前のこの少女は、小学校五年生にしては発育もよく、背はクラスで一番高く、そして何よりも気が強くて何事も自分が中心でないと済まない、少しわがままなところがあった。

そういった性格をクラスの誰もがは熟知しており、久美子が大きくアピールしている時に、わざわざ他に手を挙げるような危険な真似を侵す者は誰もいない。

「泊さん」

他に手を挙げる者がいない以上、久美子を指名しない理由もなく、基子が久美子の名前を呼ぶと久美子は勢い良く立ち上がった。

「今日は食べ物の大切さを学びました」

それは六時間目に行われた五年生全員を対象とした特別授業『食を考える』への言及であった。

一日の出来事の中で、もっとも適当な話題を久美子が持ち出したことに、基子は満足そうだ。

ところが、久美子の話題は徐々に違った方向へと進み始める。

「だから、給食を残すことはよくないと思います」

少し、不穏な空気が流れ始める。

「今はお昼休みが終わるまでに、食べることが出来なかったら給食室に返してもいい、となっていますが、これでは昼休みが終わるまで手をつけずに待っていれば、食べなくてもいいということではないでしょうか? 本当にそれでいいのかな?と思います。お昼休みを過ぎても、時間が掛かっても頑張って全部、最後まで食べるべきだと思います」

教室内がざわつき始める。

久美子の発言は、特定の誰かを名指しするような事は無かったが、クラスの誰もが一人の少女のことを指し示していることに、すぐに気がついた。

好奇心の強い子を始めとして、何人もの子がその少女の座っている方を向いて、様子を伺うように見つめる。

そして、その少女──九条沙々羅もまた自分自身のことだと、すぐに気がついた。

どうして!?

久美子の発言に沙々羅は強いショックを受ける。それと同時に、胃のあたりにきゅーっとなるような嫌な感覚が走る。

誰か、と救いを求めるように周りを見渡しても、久美子を敵に回したくないと思うものがほとんどで、それまでじっと見つめていても視線が合うと誰もがすぐに目をそらす。

基子もまた、少し戸惑い、しかしすぐに思案するような様子を見せ始めた。

「そうね……」

基子もすぐに、九条沙々羅という女子のことを久美子が言っていることに気付いたが、沙々羅が実際に給食をよく残すことも少し問題ありと思っていた。これまでは多少甘くしてきたが、もしかするとそれは逆効果で、もう少し厳しくした方が頑張って食べてくれるのではないだろうか? そのような結論に基子は辿り着いた。

「悪い考えじゃないわね」

そんな……。

基子の言葉は沙々羅に更なる衝撃を与える。

そして、不意に熱い何かがこみ上げてきた。

「っ、ぐ……!」

とっさに手で口を押さえるが、口の中には苦いものでいっぱいになる。

沙々羅の様子を横目で見ていた隣の子が、沙々羅の異変に気付き慌ててガタガタと音を立てて机を沙々羅の席から遠ざける。すると、他の子も沙々羅が今にも嘔吐しそうなことに気付く。そして、周りの子たちは次々と机を動かし始めた。

そのことがまたショックで、ついに沙々羅は我慢の限界に達した。

「おえええっっ!!!」

この日は体調もよく、ほとんど食べることの出来た給食が一気に口から噴き出すと、机の上、そしてそこから零れ落ち、床にビチャビチャと汚らしい音と共に広がった。

「うわっ、きたねぇ!」

「九条さんが吐いた!」

「くさーい!」

「やだぁ!」

次々と巻き起こる非難と中傷の言葉に涙が溢れた。

前日のショックと翌日への不安を引きずりながら、次の日がやってきた。

当然のことながら、沙々羅は朝からあまり体調が良くなかった。吐き気。それにお腹の調子もあまりよくなかった。それでも学校を休まなかったのは、母親に心配を掛けたくなかったのと、休んだら何を言われるか分からないという恐怖感からだった。

そんな調子で授業中もふとした拍子に給食のことが頭に浮かんで、少し気持ち悪くなるような状況の中、ついに給食の時間を迎えた。

食べなきゃ。そう思うも、机の上に並べられた給食を前に手が動かない。

周りは沙々羅とは対照的に、子どもらしい勢いの良さで次々と給食を食べ終えていく。

「あら、全然食べてないのね。このままだと、五時間目の授業中も一人給食の時間ね」

給食を終えた久美子が、沙々羅の傍に寄ってきて嬉しそうに声を掛ける。

「……」

その言葉にお腹の奥の方がきゅうーっとなる。

口を開くとえずいてしまいそうで、沙々羅は黙ったままだ。

「その後は、放課後かしら」

少し苛立たしげにそう言って、久美子は教室から出て行った。

五時間目の授業が始まった。

基子の決定通り、お昼休みの残り時間が10分になっても給食を返しに行くことは許されず、沙々羅の机の上には給食が置かれたままだ。

どうしたらいいのか分からず、それでも沙々羅は教科書とノートを取り出して、給食を載せたトレーを少し横に移動させて、授業を受ける。

そんな沙々羅の様子を気にする素振りも見せずに基子は淡々と授業を進める。

基子とは対照的にクラスメイトは落ち着きがない。基子が黒板に何かを書き始めると、沢山の好奇と僅かな同情の視線が沙々羅に注ぐ。そして基子が振り返ると、誰もが何事も無かったかのようにノートに鉛筆を走らせている。

教室内を異様な緊張感が走る中、沙々羅にとっての長い五時間目は少しずつ終わりに近付いていく。

早く終わって欲しい。ただ、今はそう願うばかりだ。

勿論、給食には全く手を付けることは出来なかった。授業を聞きながら食べること自体無理がある。それに加えて、朝からあまりよくなかった体調は、ここに来てお腹の痛みとして現れてきていた。いつもの下痢の痛みに、ほとんど無かった食欲はすっかり消え失せてしまっていた。

この日の授業は五時間目で終わりだ。

休み時間が無く、そのまま終わりの会へと突入する。

いつもの終わりの会と全く変わることなく、基子は淡々と進めていく。それが返って不気味に感じ、クラス中が少し緊張した様子を見せている。

一日の出来事について何か、と基子が問いかけるが誰も手を挙げない。

誰もが久美子に注目するが、昨日は基子の言葉を遮るようにして勢いよく手を挙げた久美子は沈黙したままだ。

「そう……誰もいないの? それじゃあ九条さん」

「えっ……?」

誰も挙手をしない場合には基子が誰か一人を指名するのがこのクラスのやり方だったが、誰もがこのタイミングで沙々羅を指名することに驚きを隠せないでいた。

沙々羅も突然のことに驚き、戸惑う。

「みんなの前で宣言しなさい」

「……宣言?」

いったい何を……。沙々羅も、そしてクラス中が基子の意図を理解しかねていた。

「今日は放課後残って、給食を全部食べ終えるまで帰らない、と」

「えっ……!」

そんなの絶対無理。放課後になったら食べられる、なんてことはありえないと思った。

「さあ、いいなさい」

言わなければどうなるのだろう。全く想像はつかないが、それは何かとても恐ろしいことのように思えた。

「放課後、残って……給食を、全部、食べ……ます」

そう言いながら、今にも吐きそうな気がして泣きたくなる。けれど、誰も救いの手を差し伸べてはくれない。

「まあいいわ。それじゃあ、起立──」

そして、掃除の時間が終わると、教室に残っているのは沙々羅一人となった。

他には誰もいない。沙々羅が給食を食べ終えるのを見届けるべき基子は、掃除が終わると少し職員室に用事があると言って教室を出ていった。

一方、この事態の引き金を引いた久美子は、帰り際に沙々羅の机に近付くと「いつになったら食べ終わるのかしら。明日だったりして」と笑顔でそう言うと「それでは、お先に。九条さん頑張ってね」と軽く手を振って、帰っていった。

それから十数分が経過している。

だが、机の上の給食は相変わらずほとんど手つかずだ。

しっとりとした長い黒髪。それとは対照的に、沙々羅の顔色は蒼白、と呼んでもおかしくない白さを見せている。元々、色白ではあるが、沙々羅のことをよく知るものが見れば、明らかに顔色が悪いと分かる。けれど、基子はそれにも気付かない。

顔色だけではない。表情も険しい。少し、俯き気味に、苦しそうな、何かを必死に我慢しているような表情だ。

長袖から出た、白くほっそりとした手は、膝の上のロングスカートをぎゅっと握りしめている。

吐き気。それもある。けれど、もう一つ。激しい便意だ。

沙々羅は教室の出入り口の方を見る。

基子の戻ってくる気配は無い。

「んっ……」

少し上体を前方に折り曲げて右手でお腹を押さえる。

再び強い波がやってきたのだ。

五時間目の授業中には急激に調子の悪くなってきたお腹。

それが、限界に近付いている。

どうしよう?

お手洗いに行きたい。でも……。

お手洗いに行っている間に基子が戻ってきたら、と思うと怖い。

基子の性格を考えれば、許可無く席を立ち教室から出ていったことに対して、激怒する可能性は高い。

実際にこんな出来事があった。

授業中。消しゴムを落としてしまった女の子が、慌てて消しゴムを拾おうとした。椅子に座ったままでは届かず、立って消しゴムを拾った。すると、基子は大きな声で怒鳴りつけた。

「勝手に立つんじゃない!」

女の子は事情を説明しようとしたが、基子は聞く耳を持たない。結局、その女の子は授業の残り時間ずっと立たされたままだった。

そんなこともあって、とてもじゃないけどいつ戻ってくるか分からない今の状況で、お手洗いに行く気にはならなかった。

だが、お腹の調子はいよいよ逼迫した状況を迎えつつある。そして、お腹の調子が悪くなると吐き気も強くなる。今は何も口にしていないから大丈夫だが、何かを口にしたら戻してしまいそうだ。

そんな最悪な時を見計らったように基子が教室に戻ってきた。

「どう。食べた?」

部屋に入るなり、そう問いかける。

そのまま、沙々羅の席までやってくると大きく溜息をつく。

「なんなの……全然食べてないじゃない。人もいなくなったし、食べれるでしょ?」

その口調は苛立ちを隠そうともしない。

恐怖にまた少し吐き気が強くなる。

それでも勇気を振り絞って口を開く。

「先生、あの……お手洗いに……」

これ以上の我慢は嬉しくもない豊富な経験が、危険だと告げている。それに、お手洗いに行って出してしまえば、少しは食べられるようになるかもしれない。

「食べたら幾らでも行けるわ」

「そ、そんな……」

「早く食べなさい」

「……」

今の基子には何を言っても無駄だ。

食べるしかない。

限界を迎える前に飲み物で一気に流し込んで、急いでお手洗いに行くしかない。

箸を手に取り、ゆっくりと給食に手を伸ばす。

この日の給食は白ご飯にわかめの味噌汁。鶏の唐揚げに、きんぴらごぼうとほうれん草のおひたし。そしてコップに注がれた麦茶だ。

まずは、そっと一口。

比較的口にしやすそうな、ほうれん草のおひたしからだ。

次に、きんぴらごぼう。

わかめの味噌汁を飲んで少し流し込み、ご飯を口に運ぶ。

そこで、沙々羅の手が止まる。

気持ち悪い。戻してしまいそうだ。

麦茶を手に取り、少し口に含むとご飯を一気に流し込む。

そしてまた、少しずつ少しずつ、同じルーチンで給食を食べていく。

「やれば出来るじゃない」

基子がそう声を掛ける。

「次はその鶏の唐揚げね」

「っ……!」

基子の言葉に、喉元まで何かがせり上がってきた。

これまでずっと避けてきた、鶏の唐揚げ。他はなんとか食べることが出来たが、これだけは手が出なかった。今の体調では、見るのも嫌だ。

でも、食べなきゃ。大丈夫……大丈夫だから。

そう自分に言い聞かせて、鶏の唐揚げを箸でつまむ。

「ぐっ!」

口に入れた途端に、吐き気が込み上げる。

「おえっ!!」

背中が波打ち、激しくえずく。

それだけでは終わらない。

先ほどよりも激しく、何かが身体の奥底から込み上げてくる。

どうしようもなかった。我慢することも出来なかった。

「おえぇぇ、げええええぇぇっ!!!」

大きな声と共に、食べたばかりの給食が沙々羅の小さな口から噴き出す。熱を持ち、ぐちゃぐちゃに混じりあったそれのほとんどを、沙々羅は左手に持った鶏の唐揚げの入っている器に戻してしまう。

「はぁ……はぁ……」

「ちょっと何やってるの!」

基子が声を荒らげるが、嘔吐は止まらない。

「げ、おえっ……げえええっ!!」

器の中は沙々羅の吐いたもので溢れそうになり、鶏の唐揚げはすっかりその中に沈んでしまった。

「ああ、もう何やってるのよ!」

そう言うと、基子は突然奇妙な行動に出た。

沙々羅が手に持っていた器を沙々羅の手から奪い取り、持ち上げると、無理矢理沙々羅に食べさせようとしたのである。

「いやっ!」

その異常な行動に恐怖を感じ、なんとか逃れようと必死に顔を背けるが、同世代の中でもとりわけ非力な沙々羅が抗える筈もなかった。

口の中に、温かいどろどろとしたものが入ってくる。これまでにも、口の中にまで込み上げてきたものを飲み込んだことはあったが、それとは全く次元が違う。その、あまりにもおぞましい感触に、更なる吐き気が襲いかかる。

「おえっ、げぇ……はぁ……はぁ……おええっ、えっ……あっ、や、がっ、はぁ……んんっ……えっ、げぇ、おえっ……」

吐き気が止まらなくなり、何度も激しくえずいてしまう。

それまでは食べたばかりの給食だけだったが、ついにはこの日の朝食までもが未消化のまま、ベチャベチャと机の上のトレイに音を立てて落ちていく。

そして、えずくたびにお尻のあたりに温かくてドロドロとしたものが広がっていくのを感じて、沙々羅は絶望的な気持ちに襲われた。

なんとか我慢していたものが、えずくたびにお腹に力が入って漏れだしたのだ。

ブジュブジュと水に近い下痢が噴き出すと、嘔吐の臭いに混ざって下痢特有の臭いが沙々羅の周囲にも広がる。

基子もすぐに何が起きたのか気付く。

「何やってるの! 信じられない。食べながらおもらしだなんて!!」

「ご、ごめんなさ、おえぇ、はぁ……はぁ……げぇぇ」

「立ちなさい! 保健室に行くわよ!」

基子が強い口調で命令するが、沙々羅は弱々しく首を左右に振る。吐き気は治まらず、便意もまだ強い。そのような状況で、立って歩くことなんて無理だ。

「早くしなさい!!」

激しい口調と共に、基子は沙々羅の腕を掴んで強引に立たせようとする。えずきながら、沙々羅はゆるゆると立ち上がるしか無かった。

基子に半ば引き摺られるようにして、ふらふらと教室の外へと向かう。

その足が、教室を出て少し歩いたところでピタリと止まる。

「ちょっと、何やってるの。早く。行くわよ!」

「……あ、や……だめっ!!」

再び訪れた強烈な便意に足を止めて堪えていた。だが、不意に身体を引っ張られると、もう我慢することは出来ない。

ブババッ!! ブジャアアアアアアアアアアア!!!!

大きな破裂音と共に、まだお腹の中に残っていた大量の水下痢が一気に噴き出す。

「んんっ……はぁ……」

水下痢はパンツから溢れだすと、沙々羅の細い足を伝い真っ白のソックスを茶色に染めて、更にその下の靴、そして足下へと広がっていく。

「何してるのよ!!」

絶叫にも似たヒステリックな基子の声。

沙々羅は四つん這いになって、再び嘔吐する。

「何かあった……ちょっと、何やってるんですか」

基子の叫び声と沙々羅の嘔吐する声に、近くにいた別の教師が気付き様子を見にやってきて、驚きの表情を見せる。

「光信先生、すぐに保健室に行って村山先生を呼んできてください!」

年輩の男性教師の強い調子に少し我を取り戻したのか、基子ははっとなり、慌てて保健室へと向かった。

すぐに養護教諭の村山が駆けつけて、沙々羅は保健室へと運ばれて行く。

保健室について行こうとする基子。それを年輩の教師が呼び止める。

「光信先生、一体何があったのか説明していただきましょうか……」

その後、沙々羅は何かを口にすると、すぐに戻してしまうような日々がしばらく続き、学校を一週間ほど欠席した。

学校に行けるようになっても、そこから更にしばらくの間は給食の時間を保健室で過ごした。

そして、またそれからしばらくして、やっと沙々羅に平穏な学校生活が訪れた。