『冷たい秋雨』

「間も無く閉館時間です。本を借りる方はお早めに……」

図書館内に閉館を告げるアナウンスが流れる。

人の少なくなった図書館で一人黙々と紙にペンを走らせていた、クセのない艶やかな黒髪が印象的な色白の少女、九条沙々羅はそのアナウンスに手を止める。少し周りを見回し、人が随分少なくなっているのに気付くと帰り支度を始めた。

小学六年生の沙々羅は、家から近い公立の中学校ではなく、少し遠くになる私立の中学校を受験する事を決めている。その為に毎週土曜、学校の休みの日を利用して図書館に通い、昼から閉館時間までみっちりとテスト勉強をして帰り際に小説を一冊借りて来週には返すという事を毎週繰り返していた。

「あら、こんにちは」

いつものように本の貸し出しの為に受付に行くと、見慣れた顔の女性司書がにこやかな表情で話しかけて来た。

「こんにちは」

洗練された動作で沙々羅も深々とお辞儀する。

勉強をするようになったのはここ最近の事だが、図書館にはよく通っていた沙々羅。必然的に知り合いの一人や二人も出来る。その一人が今、沙々羅に話しかけている女性司書の栗原美咲だ。

「それじゃ、来週の土曜までね」

名字の通りの栗色の髪を肩幅で切り揃え、前髪をピンで留めている美咲は慣れた手つきで貸し出しの手続きを済ませと、本を沙々羅に手渡す。

「そうそう、外は雨よ」

美咲から本を受け取る手が止まる。

本にとっては日光は天敵だ。ここ、私立姫城図書館では館内には全く外の光が入らないような作りになっている。昼からずっと図書館内にいた沙々羅には外の天気は全く分からない。

「……雨、ですか?」

天気予報で昼から崩れると言っていたので頭では理解しているが、図書館に来る前に見た晴天からは想像が付き難い。

「そっ。嫌になっちゃうわ」

はぁー、と大きな溜め息をつく美咲。

「美咲さんはバイクだからたいへんですね」

一度、図書館の外で出会った美咲は大きなバイクに乗っていた。その時、いつも図書館までバイク通いなの、と朗らかに笑っていたのを思い出す。

「そーよ、まったく。沙々羅ちゃんは大丈夫?」

「私は折りたたみ傘がありますから」

「なるほど、それじゃあ大丈夫だ」

「それでは、私はこれで失礼します」

先ほどと同じように深くお辞儀をすると沙々羅は玄関へと向かい歩き出した。その背中に、気をつけてねー、と美咲の声が響く。

自動ドアの入口から玄関前に出ると冷たい空気が沙々羅の身を包み込んだ。昼前に図書館へ来る時には半袖でも十分な暖かさだったのが、今は到来する冬を予感させるような寒さになっている。厚着ではない沙々羅は、その寒さに一つ身震いをした。

そして、外は美咲の言葉通り雨になっている。分厚い雲が空を覆いいつもに比べて薄暗くなった街に、空から雨粒が降り注いでいる。

少しの間、その風景に見入っていた沙々羅だが、いつまでもここでぼーっとしていても仕方ない、と思い肩から掛けていた鞄に手を入れて折りたたみ傘を探し始めた。いつも新聞の天気予報をしっかりチェックする沙々羅は、今日の新聞で天気が昼から崩れる事は分かっていた。そこで家を出る時に玄関で──沙々羅はそこでふと思い出した。

朝からお腹の調子が悪かった沙々羅は、家を出る前に鞄の横に折りたたみの傘を用意してトイレに飛び込んだのだ。そして、トイレを済ますと、そのまま鞄を肩にかけて家を出たのである。

だから、いくら鞄の中を捜しても折りたたみ傘は見つからない。

沙々羅にしてはらしくない失敗であったが、それほどにお腹の調子が切羽詰っていたのだ。そのお腹は現在、図書館の安定した気温のおかげか何事も無かったかのように落ち着いている。

沙々羅は鞄から時計を取り出しあらためて時間を確認する。まだ母は仕事をしている時間なので、迎えに来て貰うという方法は無理だ。

となると残された方法は一つ、近くのバス停からバスに乗って帰るしかない。

沙々羅は意を決すると、濃紺のロングスカートを翻して雨の中を駆け出した。

冷たい雨が降りしきる中を走り沙々羅はバス停に辿り着いた。

図書館からバス停までそれほどの距離では無いが、体力も無く日頃から運動をしない沙々羅は苦しそうに息をしている。ゆっくりと深呼吸をして息を整えると、鞄の中からハンカチを取り出し濡れた服を拭き始めた。

最初に水を含み重くなった長い黒髪の水を払うと、シンプルな白のブラウス、濃紺のロングスカート、そして鞄についた水も拭き取る。

少し落ち着いてきた沙々羅は、時計を手に次のバスの時刻を確認する。時刻表では後、五分ほど到着となっている。もっともこの雨では少し遅れるだろう。

ギュルギュル……。

微かにお腹が音をたてて、少し痛みが走った。外の寒さと雨の冷たさにお腹の調子が再び悪くなり始めた。

バス停には沙々羅を含めて四人の人がいる。その目を気にしつつそっとお腹に手をやる。

少しの間、お腹の方へと意識を集中させていた沙々羅は、ふと思い出したように再び時計で時間を確認する。いつの間にか到着時刻を一分経過している。やはり少し遅れているようだ。

グルル……。

再びお腹に痛みが走る。沙々羅は思わず顔をしかめて、お腹に手を伸ばそうとしたが、周りが気になって途中でその手を止める。更に最悪な事に、便意も少し感じ始めた。

落ち着かない表情になった沙々羅は、今か今かとバスの到着を待つ。その沙々羅の切なる願いに答えるかのようにバスの姿が見えた。沙々羅が時計に目をやると到着予定時間よりも三分以上遅れている。

バスが到着して入口のドアが開く。沙々羅はある程度予想していたが、予想通り車内は人で溢れかえっていた。お腹の調子の悪い状態では出来れば座りたかったが、これでは座る事は無理だろう。

とにかく、沙々羅はバスへと乗り込むと、なるべくすぐに出れるようにと出口近く目指して人込みを掻き分けて前へ進む。そして、出口付近の人一人分のスペースを見つけるとそこへ細い身体を滑り込ませる。

バスが発車すると、沙々羅は目の前の吊革に手をかけて外へと視線を移す。だが、意識は外では無く、自分自身の事へと向けられている。

バス停にいた頃よりも、確実に状態の悪化しているお腹。便意は強まり、時々お腹の痛みと共に、お尻の穴近くまで熱い塊が降りてくるのが感じられた。

沙々羅はその度に、握っている吊革を、手の色が白くなるほどにぎゅっと握り締める。

表情も余裕を失い、蒼ざめ、額にはうっすらと冷や汗が滲んでいる。

沙々羅は少しでもお腹のを痛みを和らげるためにお腹をさすりたいと思った。しかし、人の多いバスの中では周りの視線が気になって出来ないでいる。それとは反対に気付かれないだろうと思い、スカートの下では両足を内股気味にして、お尻の穴をすぼめる様に力を入れる。

バスに乗ってから悪化の一途を辿っていたお腹が、少し落ち着きを取り戻してきた。このまま安定する事を祈る。

「!?」

突然、急ブレーキがかかる。沙々羅の身体も他の多くの立ち乗り客と同じように慣性に引っ張られた。当然の事であるが、そうなると人は真っ直ぐ姿勢を保とうとして、力を込めて踏ん張る。

「……っ!!」

その時。沙々羅のお尻に生暖かい感触が広がった。嫌な感触。柔らかな下痢便。僅かな量ではあるが、沙々羅はバスの中でお漏らしをしたのである。

混み合った車内にかすかに臭いが広がる。

沙々羅から少し離れた場所にいる沙々羅より少し年上と思われる二人組みの制服の少年。二人は目を見合わせると「屁か?」「誰だよ?」と興味深そうに会話している。

沙々羅は鞄の位置を直すふりをしながら、そっとお尻に手を当てる。それが、失敗だった。沙々羅の予想よりも多くの柔らかな便の感触が手に伝わり、そして太腿の内側に何かが流れ落ちる感触がする。

まだ、周囲は誰かがおならをしたのだと思っている。しかし、誰かに気付かれたら、そう思うと恐怖に足がガクガクと震えてくる。

沙々羅の頭の中では悪夢のようなシーンが何度もリピートされる。

太腿を伝い、靴下を茶色に染め上げて、最後にはバスの床に少しずつ広がっていく下痢便。そして、それを誰かが発見でもしたら。誰か、何かを言うのだろうか? それとも、みんな知らないフリをするのだろうか? どっちにしろ歓迎される事ではない。

これ以上、流れ落ちないように少し足を交差気味にして、膝の内側を擦り合わせる。しかし、足を少し動かすたびにお尻に嫌な感触がして、泣きそうになる。

だが、ここで泣いてしまってはそれこそ終わりだ。間違いなく乗客のすべてに気付かれてしまう。

なんとかしなければ、様々な思考が沙々羅の頭の中を巡る。しかし、答えは一向に出ない。それどころか、再び便意が強まって来た。

どうしよう、どうしよう……呪文のように何度も同じ言葉が頭の中で繰り返される。

その時、再びブレーキがかかった。

集中力を欠いていた沙々羅は再び慣性に引っ張られそうになり、ついつい力いっぱい踏ん張ってしまった。

ブリュビュジュ……。

小さくくぐもった音が車内に響く。

先ほどと違い、近くにいればはっきりと聞き取る事の出来る音。先程よりも多い量がパンツの中に溢れ、液状の便が先ほどと同じように足を伝い交差させていた太腿の内側の防壁を越えて、下へ下へと落ちていく。

そして、足元でピチャピチャと小さいが、何か柔らかなものが床を叩く音がした。

先程よりも強い異臭が車内に充満して行く。

先ほどの二人組みが「またかよ」「くっせー」と大きな声で会話している。

逃げ場を探すように辺りに視線を彷徨わせる沙々羅の目に、開かれたバスの出口が飛び込んできた。外へすぐに視線を向ける。沙々羅が降りる場所の一つ手前、だがここから家まで歩けない事もない。

「すみません、降ります!!」

目の前でドアが閉まろうとして、つい大きな声を張り上げる。周りの視線が沙々羅に注がれる。その視線から逃げるように、素早くお金を払おうとするが、手が少し震えて上手くお金が財布から取り出せない。

不思議そうにこちらを見る運転手。

なんとかお金を取り出すとお金を払いバスを降りる。その時、先ほどまで立っていた足元の事が気になり後ろを振り返る。すると茶色の下痢が床に広がっていた。

表通りに面した図書館前や沙々羅の自宅近くと違い雨避けのないバス停は、高級住宅地の裏側に面した場所にあり周囲に人気はほとんど無い。

相変わらず降り続く雨の中、沙々羅は便意を気にしつつ家路を急ぐ。

次の駅、すなわち沙々羅の家に近いバス停からであれば、家までは一分とかからずに辿り着ける。しかし、ここからだと歩いて十分はかかってしまう。お腹の調子を考えればもう少しかかるだろう。

冷たい雨が沙々羅の身体に降り注ぎ、身体が冷えていく。

一歩、一歩と歩くたびにお腹に痛みが走り、便意が少しずつ強くなってくる。

それでも、沙々羅は歩き続けるしかなかった。唯一の救いであったのが、周囲が閑静な住宅地で雨もあってか人通りがほとんど無い事であった。

また時折すれ違う人もいるが、気の毒そうに沙々羅を見つめる事はあってもそれ以上の事は何もない。

「くぅ……」

激しい便意に、お腹をさすり足を内股にしてなんとか耐える。だが限界が近い事は沙々羅にも感じられる。

更に歩みを速める。

「あぁ……!!」

苦しげに顔を歪め、口から小さな嗚咽が漏れる。

ブリュ。ブッッ、ブブバッ。ブジュブシャーーーーー!!

必死に閉じていたお尻の穴は、身体の内側からの強烈な力の前に屈し、大量の下痢が一気にパンツの中に広がり、更に行き場を失ったものはパンツからはみ出して、沙々羅の足元へと次々と落下して行く。

「うぅ……」

ブビュ、ブッ、ブリュ!!

すぐ横の家の塀にもたれかかる様にして、止まらない排泄にその身を全て委ねる。

ただ今出来る事は一刻も早く排泄が終わるのを待つ事だけだ。

「っ、あ……」

ブジャ、ビュ、ビュ、ブシャアアァァーーーー!!

しかし、その勢いはなかなか収まらない。ほとんど液体と化した排泄物がまるでおしっこのように流れる。

「はぁ……はぁ……」

やっと排泄が終わると、沙々羅は排泄と雨で体力を消耗して苦しそうに荒い息を繰り返す。いつの間にか吐く息が白くなっている。

丁度、沙々羅がもたれかかっている壁に面した家から光が漏れる。誰かが入口のドアを開けたのだろう。びくっ、と沙々羅の肩が跳ね上がる。いつまでもここにいるわけにはいかない。誰かが出てきたら大変だ。

沙々羅は身体に力を込めて歩き始めた。歩くたびにお尻と言うよりもパンツ全体に、グチャグチャ、とした気持ちの悪い感触が感じられる。

家の前に来た時、入口から誰かが出て来た。

年の頃は四十代半ばの綺麗なおばさん。おばさんはずぶ濡れになっている沙々羅の姿を目にして驚きの表情を浮かべる。

「大丈夫?」

優しそうな声で、沙々羅の上に傘を持って行きながら尋ねてくる。

「……大丈夫です」

優しさが逆に痛い。

「すみません。私、急ぎます……」

「あっ、ちょっと……」

おばさんの呼びかけを無視して沙々羅は逃げるように家に向けて走りだした。おばさんに聞こえないように、ごめんなさい、と呟いて。

その姿を呆然と見送ったおばさんは、本来の目的を思い出して沙々羅に背を向けて道を歩き始めた。

その時、おばさんの目に「それ」が飛び込んできた。

「あら、やだわ。どこのおうちの犬かしら?」

激しい雨が降り続く中を、雨にぐっしょりと濡れたスカートが重く足に纏わりついて何度も転びそうになりながら、沙々羅は無我夢中で家までの道を走りつづけた。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

荒い呼吸を繰り返し家の前までやって来た沙々羅は、雨で濡れた髪を手で少し整えると鞄の中に手を突っ込んで鍵を探す。鞄の中を覗き込もうとした、その時にはっきりとした陰影が生まれた事に気付き、玄関に灯りが点いている事に始めて気がついた。

──お母さんが帰ってる?

いつもの帰宅時間よりは早いが、それ以外には考えられない。

沙々羅は、鍵を開けて玄関のドアを開いた。すると、ドアの上部に備え付けられた鐘が涼やかな音色を放ち、家の中から暖かな空気と母の作るシチューの美味しそうな匂いが沙々羅の身体を包み込んだ。

「ただいま」

沙々羅は、その慣れ親しんだ空気を感じ取り、少しほっとした表情になって家の中へと入る。

「お帰りなさい、沙々羅……ちょっと、どうしたの!?」

キッチンからエプロン姿で出て来た沙々羅の母・紫苑は、玄関で全身ずぶ濡れとなって立っている娘の姿に驚きの表情を浮かべ、エプロンを脱ぎ捨てて沙々羅の傍へと歩み寄る。

「……お母さん……わた、うっ、く……」

寒さに両手でその身を抱きしめるような仕草で、沙々羅は母の名を口にすると、瞳からポロポロと涙を流し始め、言葉は泣き声へと変わって行った。

紫苑は裸足のまま、玄関へと下りると優しく沙々羅の身体を抱きしめた。そこで紫苑は、沙々羅の近くに寄った事で沙々羅の周囲を漂う異臭に気がついた。

「沙々羅、貴女……」

「我慢しようと……思ったの……だけど」

途切れ途切れになんとか言葉を絞り出す沙々羅の頭を、紫苑は優しく撫でてやる。

「大丈夫、もう大丈夫よ……。それよりも、シャワーを浴びて身体を温めないと風邪を引いてしまうわ」

紫苑に促され靴を脱ぐ沙々羅は、足を一歩踏み出そうとして「あっ」と小さく悲鳴をあげ、その細い身体を強張らせる。

「どうしたの?」

「このままだと、廊下が汚れるから……」

沙々羅は、申し訳無さそう俯きながら小さく呟いた。その言葉に呼応するように、長いスカートの下から覗くソックスの上に、新しい茶色の流れが生まれた。

紫苑は沙々羅の頭をポンと軽く叩くと「ちょっと待ってて」と一言告げて、その場を離れてお風呂場へと向かった。しばらくして、ビニールシートを抱えて戻って来た。そして、玄関にそれを広げると「この上でスカートを脱いで」と言って、今度はトイレへと向かった。

沙々羅は母の言葉に従い、ビニールシートの上に移動してスカートを下ろした。沙々羅の細くしなやかな足が剥き出しになるが、色白な肌のあちこち、特にお尻から内股にかけてを茶色のまだ柔らかさを残した排泄物がこびりついている。

そこへ紫苑がトイレットペーパーを手に戻って来た。

「さあ、後ろ向いて」

紫苑はトイレットペーパーを適当な長さに千切る。

もう、こうなってしまっては母にされるがままだ。

紫苑が、壊れ物を扱うような丁寧な手つきで沙々羅の汚れを拭き取っていく。その度に、沙々羅は恥ずかしさと情けなさで逃げ出したい気持ちになる。それを知ってか、紫苑は沙々羅の羞恥と寒さで震える腕を時々、ぎゅっと握り締める。

「よし、もう大丈夫よ」

「お母さん……ありがとう」

「気にしないの。さあ、早く暖かいシャワーを浴びてきなさい。後は私が片付けとくから」

沙々羅は母の手に押し出されるようにしてお風呂場へと向かう。お風呂場は、さきほど紫苑がビニールシートを取りに行った時に、シャワーを出しておいたのであろう。既に、暖かいお湯がシャワーから噴き出して湯気で視界が白んでいる。

沙々羅は脱衣所で服を脱ぎ、浴室へと入る。

頭から、一気にシャワーを浴びると冷え切っていた身体が一気に暖まり、白い肌はほのかに桜色に染まる。

沙々羅がそのままの状態でぼーっとしていると、ふいにドアの向こうで母が「着替え、ここに置いておくから」と声をかけてきた。そこで、沙々羅は先ほどから気になっていた事を母に問い掛けた。

「今日は、お仕事早くに終わったの?」

「今夜、お仕事の関係でパーティーに出席しなければならなくなったから、少し早くに上がって夕食を作りに帰ってきたの」

「そう……それで。でも、それなら一言連絡してくれれば、自分で作るのに」

「だって、このところ忙しくていつも沙々羅に任せっぱなしだったから……」

娘に、忙しい中で母親として何かしてやりたい紫苑と、母に、これ以上余計な負担をかけたくないと思う沙々羅。お互いの事を気遣う二人の考えは、時折こうして平行線を辿る事がある。

「……あっ、シチューの火を見てこないと」

「シチュー?」

「今日は寒いから、何か暖かいものをと思って」

紫苑はそう言ってパタパタとキッチンへと去っていく。

母との会話の間にすっかり身体が暖まった沙々羅は、シャワーを止めると脱衣所で母の用意した服に着替えと、キッチンで夕食の仕度をしている母に自室に戻ると告げて二階の自室へと向かった。

二階の自室へと辿り着いた沙々羅は疲れ切った表情でベッドへと倒れ込み、近くの毛布を抱き寄せるようにしていつしか眠りに落ちていった。