『そして彼女は目覚めた』

真理原絵梨那はこのところすこぶる機嫌が悪かった。それもこれも一人のクラスメイトのせいである。その人物の名前は藤崎綾佳。身長はクラスでも低い方から数えて三番目と小柄、非常にほっそりとした大人しそうな女の子だ。その綾佳に絵梨那は入学式直後の五教科テストで僅かに三点差で敗れたのである。小学校時代、絵梨那は敗北を知らなかった。元々がプライドの高いお嬢様である絵梨那は、その日以来綾佳をライバル視するようになった。

そして、ついにテストの借りを返す時がやって来た。

体育館。体操服に身を包んだ女子生徒が体育座りで並んでいる。これまで体力測定の続いていた体育の授業が今日から本格的に始まる。皆が一体どんな授業になるのかと好奇と不安の間を揺れ動く感情で担当教師の一挙手一投足に注目していた。

絵梨那は自分よりも前に座る綾佳をじっと睨みつけるように視線を送っていた。その強烈な目つきと裏腹に心の中で高笑いを上げていた。テストでは負けた、しかし体力測定を見る限り綾佳の運動能力はクラスでも一番下、一方の絵梨那はクラスで一番の成績だ。負けるわけが無い、徹底的にコテンパンにして足元に跪かせてやる。

「今日の授業はバスケットボールをやります」

教師のセリフに少しざわめきが起こる。

「静かにするように。……それではチーム分けだけど、そうね……一チーム六人で五チームで行きましょう。試合の無いチームの人はちゃんと試合を見るように。それと、審判は出来るだけ経験者がやるように……それじゃあチームを言います」

皆の視線が教師に注がれる。

「とりあえず経験者は前に来て」

その言葉に六人の生徒が前に出てきた。

「あら、ぴったり六人、丁度いいわね。それじゃあそこに一列に並んで」

経験者六人は一列に並んだ。

「じゃあ、後は整列順で行きます」

そう言って順番に生徒の名前を読み上げ、次々と生徒が並んでいく。絵梨那はその中に並ぶ綾佳の姿に目を向ける。綾佳は左から三番目のチームだ。その綾佳と一瞬視線が合う、しかし綾佳は慌てて視線を外した。

「真理原絵梨那……Cチーム」

「はい」

名前を呼ばれた絵梨那はCチームの方へと歩き出そうとした足を止める。Cチーム、左から順番にABCと続いている。

「どうしたの? 早く並びなさい」

「はい」

肩を落としてCチーム最後尾に向かう絵梨那の姿を教師は怪訝そうな表情で見つめた。

絵梨那はとにかく気持ちを落ち着けようとした。綾佳と同じチームになるとは全くの予想外の出来事だった。元々頭をすぐに切り替えるのは得意な方だ、綾佳との勝負はまた今度にして今日はこの勝負に勝つ事に全力を尽くそう、そう心に決めた。

きゅっ、きゅっ、と体育館用の上履きが床と小気味よく奏でるメロディーとバスケットボールが床を叩くリズム。体育館で少女たちが激しく動き回り、熱い戦いを繰り広げている。

試合は十分ハーフの前後半合計二十分。体育館にはハーフサイズのバスケットコートが二面取れるため、同時進行で二試合行なわれる。そして絵梨那と綾佳のチームは現在Dチームとの試合の真っ最中である。

試合は一進一退の攻防を繰り広げている。絵梨那は持ち前の運動神経でバスケ部員と遜色の無いプレー振りでチームを引っ張っていく、しかし一方では綾佳がチームの足を引っ張るという状況も起こっている。その結果の一進一退である。

「はぁはぁはぁ……」

既に足は止まり気味になり、大きく肩で息をする綾佳。

「藤崎さん、足が止まっていますわ!」

厳しい叱咤が絵梨那から綾佳に向けて浴びせられる。しかし、この叱責は綾佳への怒りではなく、純粋に勝負に対する執着から来るものである。

試合も終盤を迎えた頃、綾佳の足は完全に止まっていた。その綾佳が吹き出す汗を拭う為に額に手をやったその刹那、絵梨那が素早い動作で綾佳にパスを出した。一呼吸受けるタイミングがズレた綾佳。慌ててボールを取ろうと手を動かすがボールはその手をくぐり抜けて綾佳の下腹部に突き刺さった。

「うっ!」

小さく呻き声を上げ綾佳は体育館に膝をつく。一瞬の出来事に体育館が静まり返る。その時、綾佳の身体に異変が起こった。綾佳のお腹、胃、そして喉元へと熱い塊のようなものが下から上へと蠢いた。咄嗟に両手を口に持って行く綾佳。しかし、その手を跳ね除けるような勢いで、綾佳の口から吐瀉物が一気に噴き出した。

「きゃー」「ヤダぁ」「気持ち悪いー」「汚い」

体育館に広がっていた静寂は打ち破られて、新たにざわめきが体育館に広がっていく。その中で一際大きな音。それは綾佳が嘔吐する声とも音とも判別のつかないものであった。綾佳の嘔吐は一度で終わらなかった。最初の嘔吐の後、少し間を相手再び先程よりも量の多い吐瀉物を吐き出した。ボールを受けた下腹部への痛みからお腹を抱えるようにしている綾佳の吐瀉物は体育館の床よりも前に膝の上に落ちていく。

吐瀉物特有の強烈な臭いと綾佳の悲惨な姿にほとんどの生徒は目を背ける事しか出来ない、その中を担当教師が慌てて走って来た。

ただ、絵梨那だけが綾佳の方をずっと見つめ続けていた。

その時、もし誰かが絵梨那の方を見たら恐怖したかもしれない。その時の、絵梨那の表情には悪びれた様子は全く見られず、僅かに微笑を浮かべていたからだ。そして絵梨那の手はまるで先ほどの感触を反芻するかのように何度も握っては開くという動作を繰り返していた。