沙々羅の部屋のドアを叩く音がする。
「それじゃあ、お母さん先に出るけど、本当に今日はごめんなさいね」
ドア越しに沙々羅の母・九条紫苑の申し訳無さそうな謝罪の言葉が、昨日から一体何度目になるのか分からない、母の綺麗な声で聞こええてくる。
着替えを終えて、制服姿となった沙々羅が部屋から出てくる。
沙々羅の長く癖の無い綺麗な黒髪と色白の肌が、紺色の制服と絶妙なコントラストを描いている。
「まぁ……」
沙々羅の制服姿に思わず母も感嘆の声を漏らす。
「気にしないで下さい。お母さんが私のためにどれだけ頑張ってくれているか、よくわかっていますから」
「沙々羅……」
母は今にも泣き出しそうな顔を見せる。
「もう、そんな顔をしないで下さい」
沙々羅の言葉に、母の表情もぐっと引き締まる。仕事用の表情だ。こうなった時の母は家で見せるたおやかさとは違い、どちらかと言うと恰好良く見える。
「気をつけて。いってらっしゃい」
「沙々羅こそしっかりね」
軽くウィンクをして母は家を出ていった。
「ふぅ…」
母が家を出るの見届けると沙々羅は微かに溜め息をついた。
沙々羅は朝、起きた時から少し調子が悪いのを感じていた。しかし、今日は入学式。もし、母が沙々羅が調子が悪いと云えばどう思うだろうか。
沙々羅は生まれてすぐに父を亡くした。それ以来母一人娘一人でお互いに支えあって生きてきた。しかし、身体の弱い沙々羅、その事で何度も母には心配を掛けてきた。
そう考えると、何も言い出すことが出来なかった。
そして、母を送り出した途端にどっと疲れが出たのだ。
「しっかりしないと…」
小さく呟くと、沙々羅はベッドに戻り、ベッド上に乗っている鞄を手にとると家を出た。
「続きまして、在校生を代表して生徒会会長・八坂麗奈《やさかれいな》より新入生への挨拶。新入生一同、起立」
入学式の進行役の女生徒の凛とした声が講堂に響く。
号令にあわせて、講堂前方を占める新入生が長椅子からすっと立ち上がる。
私立遊樹姫女子中学校では様々な行事を生徒主体で進めていく方針をとっている。そのため、各行事における進行役も生徒が担っているのだ。
進行役の声に導かれるようにして、舞台の上手から中央に置かれた机に向かって一人の制服姿の生徒が歩いてくる。
生徒会長の姿に新入生の間から僅かにざわめきが起こった。
生徒会会長・八坂麗奈。他人にも自己にも厳しい性格だが、その手腕は高く評価される有能なる生徒会会長。
しかし、それ以上に麗奈はその美貌で有名な存在である。毎年文化祭で行なわれ美少女コンテストで二年連続優勝、今年も最有力優勝候補である。その美貌に新入生の多くが溜め息をついたのだ。
更に麗奈の名字にも多くの新入生は興味を引かれる。私立遊樹姫女子中学校の理事長の名は八坂咲枝。麗奈は理事長の娘なのだ。しかも、八坂という名は遊樹姫のみならず、姫城市においてもっとも影響力のある一族の名前でもある。
遊樹姫、八坂、姫城、これらの名前の始まりは戦国時代に遡る。
当時、この一体を治めていた家の名が八坂である。その当主・八坂影清に第一子となる姫君が生まれた。影清は姫の誕生をおおいに喜び、姫に遊樹姫と言う名を名付けた。そして、遊樹姫誕生を祝してこの地に遊樹姫の城を築城する。
この八坂家は江戸時代も絶える事無く、明治に入り大名の身分を失った後も一族は姫城の地で大きな影響力を持ちつづけている。
私立遊樹姫女子中学校は明治に当時の八坂家当主、八坂国近の妻・さえの手によって遊樹姫女子学校として設立されたのが始まりであり、戦後その名を現在の私立遊樹姫女子中学校とする。校名の由来となった遊樹姫は、民思いで臣下の者に絶大な人気を誇り、また文武共に優れた人物で、戦国時代末に襲った八坂家最大の危機を奇略をもって救った人物として歴史にその名を刻んでいる。
生徒たちが遊樹姫のような立派な人物になれるように願いを込めてさえは名付けたのだ。
麗奈は机の前まで来るとしばし、新入生のざわめきが収まるの待つと、進行役の女生徒に向けて微かに頷いた。
「新入生一同、礼」
再び、進行役の凛とした声が講堂に響く。
新入生、そして舞台の上の生徒会会長が深く礼をする。
「新入生一同、着席」
新入生は、号令と共にきびきびとした動作で再び長椅子に座る。
その姿をじっと見つめていた生徒会会長は、それまでの真面目な顔から僅かに笑みを浮べた。
「みなさん、ようこそ遊樹姫に」
どこか気高ささえ感じさせる声が講堂に響いた。
新入生は皆、舞台の上の主演女優の一挙手一投足を見逃すまいとするファンのように、食い入るように麗奈を見つめている。
そんな新入生の中、唯一人沙々羅だけは元々白い顔を更に白くさせてうつむき加減で座っている。
朝から感じていた不調が吐き気となって沙々羅の身体を蝕んでいるのだ。
先程まではなんとか耐える事の出来た吐き気だが、小さな頃から体調不良で何度も嘔吐を経験して来た沙々羅には、限界が近いことを感じていた。
しかし、今この情況で席を立って退出する勇気は沙々羅にはない。もし、そんな事が出来ていたらこれまでに何度も人前で嘔吐する姿を見せる事は無かった筈だ。そして、それらの苦い想い出が更なる重石となって沙々羅の精神にプレッシャーを与え、吐き気はますます強くなっていく。
このままでは、式の途中で吐いてしまう。そして、式で嘔吐した人物と呼ばれ、小学校の時のように周りから微妙に敬遠されがちになるかも知れない。そう考えると涙が零れそうになる。
「大丈夫か?」
ふいに、沙々羅の右隣からぶっきらぼうな口調のアルトの声が問いかけてきた。沙々羅は声の方へと顔を向ける。
沙々羅の右隣。それは同じ新入生であり、クラスメイトとなるべき存在である。
名簿順で沙々羅の一つ前になる──胸につけた名札には狗藤桐華と記された──その生徒は非常に目立つ少女であった。
なんと言っても目を引くのは桐華の身長である。中学生一年生としてはとても高いその身長に、名簿順で後ろに並んだ沙々羅も驚きを隠せなかった。
更に桐華はただ身長が高いだけではなかった。
普通、身長が高いとどうしても猫背になりがちだが、桐華は背筋が真っ直ぐと伸びており、その姿勢の綺麗さには沙々羅も感心したほどである。
もう一つ、多くの人の目を引きつけるのは桐華の容姿だ。
可愛い・綺麗というよりも凛々しいと形容出来そうな桐華の容姿。それは女の園たる女子中学校ではある意味もっとも危険な存在である。
その凛々しい容姿の桐華が、沙々羅よりも随分高い位置から真剣な表情で沙々羅の方を覗きこんでいる。
あまりにも真剣で真っ直ぐな瞳で沙々羅を見つめる桐華に対し、何かを答える事も出来ずに思わず視線を外してしまう。女性と分かっているのに何故か少しドキドキする沙々羅だったが、さすがに無視を決め込む訳のはいけない事だと思い「大丈夫です」、そう桐華に伝えようと思って口を開いた。
その瞬間。まるで口を開くのを待っていたかのように、胃の中のものが凄まじい勢いでせり上がって来た。
「だっ……おぶっ!!」
「大丈夫」という言葉は最初の「だ」の音だけを残して空中に消え、慌てて口許にやった両手の隙間から苦しげな声とも言えない奇妙なくぐもった音が発せられた。
沙々羅は苦しそうに口許を押さえ、身体を折り曲げる。
その指の隙間から、少し粘り気のある液体が落ちて行く。
それほど大きな音ではなかったが、吐瀉物の床に跳ね返る音が、沙々羅にはひどく大きな音に感じられた。
我慢出来なかった。後悔の思いが頭を駆け巡り、苦しさと羞恥で沙々羅は顔を上げる事も出来ない。
「う……ぐっ」
再び吐瀉物が喉元までせり上がり、口内に一気に溢れかえる。その勢いは先程よりも強力だ。
なんとか口から外へ出ることを押さえようと口と口許に当てた手に力を込める。
心の中で、これ以上吐きたく無い、と強く願う。
しかし、口内に溢れた吐瀉物は行き場を求めて荒れ狂う。
沙々羅はその力に抗う事が出来ず、僅かに口を開いてしまった。その僅かな隙間を吐瀉物はすり抜けていく。
沙々羅の掌に暖かく粘り気のある液体の感触が伝わる。吐瀉物が再び講堂の床に零れ落ちる。それを薄く開いた目で見つめる沙々羅。
「はぁはぁ……」
苦しそうに方で息をする沙々羅の耳に周囲のざわめきが入ってきた。さすがに、周りの生徒たちも気付いたのだろう。
明瞭に聞き取れないはずのざわめき。しかし、そのざわめきが好意的でない事はすぐに想像がつく。このままここに居れば、更に大きな嘔吐に見舞われることは確実だ。そうなれば、このざわめきはもっと大きく広がってしまう。
もし、そうなってしまったらその後の学校生活は悲惨なものになるだろう。周りから入学式で嘔吐した生徒と呼ばれる。
今なら、まだそれほど多くの生徒には知れ渡っていない。沙々羅は勇気を振り絞り、この場から退出しようとした。
その時。
手が、そっと優しく包み込むように沙々羅の肩に触れた。
「立てるか」
先程と同じぶっきらぼうなアルト声。
「えっ?」
いきなりの事に戸惑う沙々羅。
「歩くのが無理なら、先生を呼んでくる」
「あ……」
一瞬、何の事かと思った沙々羅。しかし、すぐに答える。
「歩けます」
「それじゃあ」
そう言って、桐華は沙々羅を支えるようにしながら立ち上がる。
講堂内は突然の出来事に水を打ったように静まり返る。そして、沈黙の代わりに好奇の視線が突然立ち上がった二人の生徒に向けられる。
こうなる事はわかっていた沙々羅だが、恐ろしくなって足が動かなくなる。
麗奈も壇上から何事か二人の方へと視線を向けている。
桐華は沙々羅を支えるというよりも庇うような位置取りで、麗奈の視線を受け止める。
「友達が気分が悪いようなので、彼女を保健室に連れて行こうと思います」
このような状況であろうと臆する事の全く無い桐華。
「私たちには気にせず、続きをどうぞ」
生徒のほとんどが「いや、気になるだろう」という突っ込みを入れそうな桐華の言葉だが、麗奈はあっさりと二人を無視して続きを喋り始めた。
もちろん麗奈とて新入生の一人が気分が悪いという事が気にならなかった訳ではない。しかし、先程言葉を交わした生徒にならまかせておけば大丈夫だろう。だから麗奈は自分自身の務めを果たす事に意識を集中する。
「さあ、行こうか」
沙々羅は桐華に支えられるようにして、生徒達の居並ぶ長椅子の前を通り抜ける。
すると、そこに数人の教師が立っていた。
「九条さん、大丈夫?」
その先頭に立っていた白衣の女性、保健教諭の和泉璃伽が心配そうな表情で問いかける。
かなり余裕を失っている沙々羅は小さく頷くだけだ。
「先生、後をお願いします」
沙々羅の背中を軽く押し出して、目の前に立つ璃伽に沙々羅を預けると、桐華はそう言って深く一礼した。
「ええ、任せて頂戴」
璃伽は桐華の言葉に力強く頷く。
「さあ、九条さん行きましょう」
「はい……」
沙々羅は璃伽に付き添われて講堂を後にした。
再び強くなってきた吐き気を、璃伽から受け取ったタオルを口許にあてがって、なんとか吐くのを耐えながら沙々羅は保健室へ向かって璃伽と並んで歩いている。
二人が丁度校舎へと辿り着いたその時、沙々羅の足が止まった。
「うぶっ……!?」
くぐもった音が口許にあてがったタオルの奥から聞こえる。
「はぁはぁ……」
タオルを少し口許から離して、苦しそうに口で息をする。その口許から粘り気の強い液体がどろどろと溢れ出す。口から溢れた吐瀉物は両手で広げたタオルでなんとか廊下へと落ちるのを防ぐ。
「九条さん、大丈夫!?」
少し慌てた様子で璃伽は声をかける。
「もう少しで保健室だけど、無理そう?」
その問いにも沙々羅は整った顔を苦しそうに歪めるだけだ。
無理も何ももう一歩も動けない。少しでも身体に振動を与えると残りのものを全て吐き出してしまいそうなのだ。
もう、首肯する事さえも苦しい。
その様子に璃伽も、もう沙々羅が限界な事がわかった。
これ以上苦しんでいる生徒を無理矢理歩かせるのも酷だ。璃伽は覚悟を決めた。
ただし、一つだけ気をつけなくては、と思う事がある。それは沙々羅の新品の衣装をなるべく汚さないようにする事だった。
「ぐ……おぇ!? おぇぇぇ!! ごほっ、う……ぐぇぇぇ!!」
静かだった廊下に、沙々羅の美しい声からは想像出来ない不気味なうなり声が響き渡った。
咄嗟に身体を折り曲げ、上半身を突き出すようにして両手を壁についた沙々羅。その口から今日これまでに吐いた三度の総量よりも多そうな、大量の吐瀉物が吐き出された。
璃伽は沙々羅の脇に立つと、片手で背中を優しくさすりながら、もう片方の手で沙々羅の長い髪の毛に吐瀉物がかからないように持ち上げる。
沙々羅は苦しさに目に涙を浮べながら、更なる嘔吐に備えるようにずるずると腰をおろす。
「はぁは……うっっ!?」
苦しそうに荒い息をついていた沙々羅だが、再び吐き気が襲い、苦悶の表情を浮かべる。
「がっ!! げっ、げぼっっ!!」
再び沙々羅は嘔吐する。
先程よりは少し量が減ったがそれでもかなりの量だ。それが、口から廊下に向けて糸を引きながらやけに緩やかに落ちて行く。
璃伽は強烈な臭いに少し顔をしかめながら、その吐瀉物を見つめている。朝食と昨夜の夕食が混ざっているのだろうか。完全に形を失った粘り気の強い液体とそれに埋もれるようにごはんつぶ・野菜の断片・味噌汁の具であったと思われるなめこが見て取れる。
先程まで苦しそうに息をしていた沙々羅だが、その呼吸も随分と落ち着いて来ているようだ。
「九条さん、もう大丈夫?」
沙々羅の様子を横目で見ながら問いかける。
「は、はい……」
璃伽はポケットからハンカチを取り出すと「さあ、これで口を拭いて」と言って沙々羅に手渡した。
綺麗なハンカチを手にして少しの間を置いて、璃伽の方へ顔を向ける。
「いいのよ、気にしなくても」
ね、と優しい笑みを沙々羅に返す。
「すみません……」
小さく呟いて、ハンカチで口の周りにへばりついた吐瀉物を丁寧に拭き取る。
「さあ、あらためて保健室に行きましょう」
拭き終わるのを待って、璃伽は沙々羅を立たせて、二人保健室へと向かった。
「また、吐きそうになったらこの洗面器に吐いたらいいからね。我慢はしない事、いい、わかった?」
保健室のベッドの上で横になっている沙々羅の枕元に洗面器が置かれた。
「はい」
「よろしい。それじゃあ、先生ちょっと出るけど……一人でも大丈夫?」
璃伽は何故出るのかは言わないが、おそらく先程の吐いたものの後始末だと言うことは想像がつく。
「すみません」
ついつい謝ってしまう沙々羅、
「気にしなくていいの。まあ、なるべく無理はしないでいてくれる方がありがたいけど、貴女たちの年頃は色々と複雑だからね……」
どこか遠くを見つめるような表情の璃伽。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるわね」
ベッドを覆うカーテンを閉じると、璃伽は保健室から出ていった。
残された沙々羅は、先程講堂での桐華の言葉を思い出す。
「友達が気分が悪いようなので、彼女を保健室に連れて行こうと思います」
桐華の何気ない一言。しかし、沙々羅と桐華は名列順に並んだ時に少し挨拶をしただけの間柄だ。
それだけで、そんな簡単に友達になれるのだろうか?
沙々羅が家から近い中学校ではなく、遊樹姫女子中学校への進学を希望した背景は、小学校時代にあまり友達が作れなかったからである。
そんな沙々羅にとっては、中学校に入って友達を作るという事は最も切実な要求であり、またもっとも不安な事でもあった。
だが、桐華は沙々羅にとってとても重いその言葉を、何事も無いかのように口にした。
あの、言葉は本心から出た言葉なのだろうか……?
沙々羅の思考は眠りの海へとゆっくりと沈んでいった。