午前の授業を終えるチャイムが学校に鳴り響いた。
それまで学校を支配していた黒板とチョークのぶつかる音と教師の声はチャイムと同時に消え去り、かわりに生徒たちの活気が真冬の寒さを暖めるかのように学校中に溢れかえる。
休み時間に突入した生徒達の行動は、ほぼ二つに分けられる。
寒さを嫌い暖かな教室で友人達と弁当を広げて昼食にする生徒、そして三時間目の授業の直後に早弁をして午後の授業の終わりと共にクラブ活動へと外へ繰り出す生徒。
鈴森葵はこの二大勢力とは少し違った行動を今日は執らねばならなかった。葵は図書委員で今日は葵が昼休みの図書室の係りの日なのだ。
葵は弁当箱を鞄から取り出し、いつも一緒に昼食を食べる友人達に理由を告げて、教室を後にした。
教室の外に出ると、室内では感じる事の出来ない寒さが葵の身体を包み込む。その寒さに葵は身震いした。
一方で教室内の空気の悪さで気分の悪かった葵にとって外の澄んだ空気は気持ち良かった。
実は葵は朝から体調が悪かった。けれでも責任感の強い葵は、図書委員の務めを休むのをよしとせずに無理をして登校してきた。その体調は学校に来てからも緩やかながら確実に悪くなって来ていた。
葵は寒さから逃れるように歩みを速めた。
葵が図書室に到着した時、図書室の前には誰も居なかった。
図書委員の仕事は一〜三年の図書委員から各学年から一人づつの三名で行なうようになっている。けれど現在は受験時期で三年生は学校には来ないので二人での仕事となる。
葵と共に仕事をする春日部悠子はまだ来ていないようだ。
朝のうちに受け取った図書室の鍵を取り出して図書室のドアを開く。そして、上履きを脱いでスリッパに履き替えて図書室へと入った。
図書室の電気を点けて、暖房を動かす。暖房から徐々に暖かな風が図書室中を暖めて行く。
一息ついた葵は弁当箱を図書室の貸出しカウンターの上に置いて、カウンターの椅子に腰掛ける。生徒がやってくるまでに食べなければならないが、どうにも食欲が湧いてこない。取り敢えず弁当箱のフタを開けたものの、箸で中身をつつくだけだ。そうこうしているうちに生徒がやって来た。結局、葵は弁当に手をつける事無くフタを閉じてカウンターの下にしまった。
時間と共に生徒は増え、部屋は温かく、そして空気は悪くなっていく。それと共に葵の気分も悪くなってきた。
気持ち悪くて保健室に行きたくなったが、相方が現われないこの状況ではカウンターから離れるわけにもいかない。葵はなんとか吐き気を堪えつつ、仕事を続ける。
その時見覚えのある生徒が図書室に入って来た。葵の相方のクラスメイトだ。葵はすぐに声をかける。
「ねえ。春日部さん、何処にいるか知らない?」
いきなり声をかけられたその生徒は、一瞬きょとんとした表情を見せた。
「彼女、図書委員で今日は仕事があるの」
葵のその言葉でわかったようだ。
「春日部さんなら今日は風邪でお休みです」
「えっ、そうなの。……ありがとう」
その生徒は軽く会釈して図書室の奥のほうへと消えて行った。
これでこの休みの間に保健室に行くのは不可能となった。葵は仕方なく、休み終わるまで我慢よと自分に言い聞かせ、作業を続けた
葵はちらりちらり、と時計に目を遣るが時計の針は遅々として進まない。いつもならすぐに終わるお昼休みが今日はやけに長く感じる。
ついに時々喉元まで上がってくるようになった胃の内容物を必死に押し戻しつつ貸出し作業を続ける事は非常に苦しい。いつの間にか時計を見ることすら忘れ、貸出し作業と吐き気を堪える事に意識を集中させていた葵は予鈴のチャイムの音でふと我に返った。
予鈴が鳴り終わると生徒は次々と図書室から出ていく。葵はその姿を恨めしそうに見ながら葵は、あと少しあと少し、と自分を鼓舞する。
最後の一人の生徒が図書室を後にした。
なんとか、堪え切った事で葵はほっとした。
早く保健室へ行こう、そう思い弁当をカウンターの下から取ろうと姿勢を崩した途端に吐き気が一気に込み上げて来た。
「……ぐっ!」
葵は慌てて手で口許を押さえる。その手の隙間からポタポタと吐瀉物が僅かに零れ落ちる。幸いと言うべきか口から漏れ出たのは少量だ。
「はぁはぁはぁ……」
葵はカウンターの横でうずくまるような状態で、口に手を当てたまま肩で激しく息をした。
もう動けない、これ以上動いたら胃の中身を全部ぶちまけてしまう、葵はそう思い涙が出そうになる。
そしてそれ以上に心細くなった。既に図書室に人影は無く、予鈴も鳴り人がこれから来る可能性も低い。そして、このままでは確実にここで嘔吐してしまう。かといってお手洗いや保健室まで辿り着く事も出来そうにない。
葵はもし嘔吐した時の為に何か袋のようなものは無いかとあたりを見回した。するとカウンターの下に厚めのビニールシートが置いてあるのを発見した。
このシートは主に本の上に被せて、埃除けや日光から本を守るの使うのだ。
他に使えそうなものが見つからず、葵はそのシートを引っ張り出す。そして、それを自分の下に広げた。
取り敢えずこれで、この場所で嘔吐しても大丈夫だ。けれど葵は正直吐きたく無かった。それは嘔吐という行為に対する恐怖・嫌悪・羞恥の心からである。
しかし、その思いとは裏腹に、シートを広げた事で何処かに安心が出来たのか何度も小規模ながら吐瀉物がせり上がり、そして葵はえずいた。
「げほっ……うげっ……ぅぅ」
ぴちゃぴちゃ、と液状の吐瀉物がシートに飛び散る。
「誰かいるの?」
ふいに図書室のドアが開き一人の女性が入って来た。教師の四方亜紀だった。亜紀は次の授業の準備のためにちょうど図書室の前を通りかかり、ゲタ箱に靴があるのを見て休み時間の終わりを告げに入って来たのだ。
「……先生……ぐっ」
葵は亜紀の姿を見て安心した、けれでも容赦無く吐き気が襲う。
「ちょっと、大丈夫!?」
亜紀はカウンターの横で苦悶の表情を浮かべる女生徒の姿に驚きながらも、すぐに駆け寄った。
傍まで近寄った亜紀はすぐに状況を把握する。葵の背中を手でさすりながら声をかける。
「保健室かトイレまでいける?」
ふるふる、と葵は小さく首を振った。
「そう……じゃあここで全部吐いた方がいいわね」
けれど葵は、吐きたくないという思いが強くて、なかなか吐くことが出来ない。何度も苦しそうにえずくだけであった。
「ちょっと苦しいかもしれないけど我慢してね」
「えっ?」
吐けない葵の姿を見かねた亜紀はすぐに行動に移る。
スーツの袖を捲ると、その手を一気に葵の喉の奥深くへと突っ込んだ。
「おぶっ、おえええーーーー!!」
亜紀が手を引き抜くのと同時に、葵の口から吐瀉物が吐き出される。激しくシートを打ちつける吐瀉物は二人の衣服にも飛び散り、部屋にはすえた臭いが充満した。
「苦しかった? ごめんね……」
亜紀は背中をさすりながら申し訳無さそうに謝った。
「ううん。それより先生の服……ごめんなさい」
自分がどれほど苦しかったか、けれでもその事よりも教師に対しても心遣いを見せる葵。亜紀としては自分の教え子がそういった心を持ってくれたことが嬉しかった。
「いいのよ、こんな服。可愛い生徒たちに比べたらたいしたものじゃないし。よし、少し落ち付いたかな」
亜紀はポケットからテッシュを取りだし、テッシュを使って葵の口許をぬぐい、自分の手を拭くと立ちあがった。
「ちょっと待っててね、保健の先生呼んで来るから」
「はい……」
そう言って図書室のドアへと向かった……と、途中で慌ててUターンしてカウンターの上に置いてあった鍵を取る。
「開けっぱなしで誰か来たら困るものね」
亜紀は軽くウインクして再びドアへと向かった。
ドアに鍵がかけられ、図書室に一人きりになっても葵には先ほどまでの心細さはなかった。