「あの……私、そろそろ帰らないと」
時計の針が10時を少し回った頃。盛り上がりをみせていた中学時代の同窓会に生まれた一瞬の静寂、その瞬間に稀宮美幸の小さな声が響き渡った。
美幸は予想外に響いた自分の声と、「えー」「どうして」と次々と投げかけられる周囲の声と、何かを訴えかけるような視線から逃れるように下を向いてしまう。
「ごめんなさい……明日は早くから用事があるから……」
先程よりも更に声が小さくなってしまう。
「仕方ないよ美幸はお嬢様だから。門限なんてのもあるし、早く帰らないとご両親が心配して店に来るかも」
同じ大学に通っている友人の野中美帆が助け舟を出す。美帆の言葉通り美幸の家は結構裕福な家庭である。そして、美幸の両親は一人娘という事もあってか美幸の事を溺愛している。
しかし、美幸ももう二十一である。高校時代の夜七時までに家に帰るべしという前時代的な門限を、美幸にしては珍しく両親と激しく口論して、連絡を入れれば遅くとも十二時までに帰宅するという事で決着した。
──ごめん、美帆ちゃん。
美幸は心の中で友人に謝罪をする。本当のところ、明日早くの用事も、門限・両親も全く関係ないのだ。もっと別の理由なのだ。
「あっ……」
──やっぱり素直に言わないと。
「どうしたの?」
「え……うん、なんでもないの」
言い出せない。たった一言。シンプルなフレーズ。それが、喉まで出かかるが、そこから先へと進まない。その言葉は「気持ち悪い」であった。二十歳を越えた美幸であったが、お酒というものをほとんど飲んだ事が無かった。しかし、今日は周りの勧めもあってこれまでの人生で一番多い量の酒を飲んでしまった。その結果、少し前から気持ちの悪さを感じ始めていた。
ここで素直に「気持ち悪い」と言えばよかったのだが、美幸は人に嘔吐する姿を見られる事・気付かれる事に対して極度の抵抗感を持っていた。そして、美幸が言い出せないでいる間に気持ち悪さは着実に強くなっていった。そこで最終的に美幸がとった最終手段が「帰る」事であった。
そして、こうしている間にもムカムカ感はずっと美幸にまとわりついていた。
「それじゃあ、私は……あっ」
そう言って立ち上がろうとした美幸だったが、酔いの所為か立ち上がったところで僅かによろめいてしまった。
「おっと」
よろめいた美幸を誰かが背後から支えた。
「大丈夫?」
美幸が礼をのべるよりも先に後ろの誰かが声を発した。
「あ、ありがとうございます」
言いつつ後ろを振り向いた美幸の目に一人の人物が映る。美幸を後ろから支えたのは秋山晴美だった。
中学を卒業して以来、久し振りに出会ったクラスメイト達。その中でも中学時代と一番大きく印象が違っていたのが、今、目の前にいる晴美だった。
中学時代の晴美の姿は今でも卒業アルバムを開けばすぐ見る事が出来る。美幸も今日、ここに来る前に家で卒業アルバムを開いて昔の思い出に浸っていた。そして卒業アルバムの中の晴美は、髪を鮮やかな赤で染め、鋭い視線でカメラを睨みつけていた。
更に美幸は中学時代の晴美の記憶を掘り起こそうと試みる。だが、中学時代の晴美の情報は噂で聞いている程度でどこまでが事実か知らなかった。結局、出てきたのは「不良」という言葉を軸に語られる一面だけであった。
だが、今、目の前にいる晴美には当時の面影は全然見られなかった。さっぱりと短くした髪は染める事もなく、いたって穏やかな表情、服装もシンプルでスポーティ。
高校には行ったと聞いたけど、そこで何か大きな転機でもあったのかな? と美幸は思った。それほどに晴美から受ける印象が中学時代のそれとは違っていた。
「そうだ、晴美。稀宮さんを家まで送ってあげてよ」
誰かがそんな事を言った。
「そうそう、あんた看護婦さんなんでしょ」
別の誰かが前の言葉を受けて補足する。
「えっ!?」
美幸は思わず驚きの声を上げてしまう。
「あれ、知らなかった?」
「……うん、全然」
「あっ、そっか。稀宮さん遅れて来たから、そりゃ知らないよね」
学校の用事で少し遅れてきた美幸は、最初の現在何をしているか一人ずつ発表、というのを聞く事が出来なかった。その後、晴美と話す機会もなくて晴美が今何をしているのか全く知らなかったのだ。
「私、こう見えても一応白衣の天使なの」
晴れやかな笑みで何故かVサインの晴美。
白衣の天使と聞いて、ますます過去の晴美とのイメージの激しいギャップに戸惑いを覚える。ただ、今の晴美はとても充実した笑みを浮べている。その事に美幸もなんだか嬉しくなった。
「でも……」
折角の同窓会。それに出来れば一人で帰りたかった。もし、考えたくは無いけれど帰り道で強い吐き気に襲われたとしたら。もちろんそんな事は考えたくない。だが、頭の中から追い出そうとすればするほど、悪夢のようなイメージは鮮明になっていく。そして、不安が吐き気をますます強めていくのだ。
「いいじゃないの。さあ、行こっ」
そう言って晴美は美幸の手の荷物は強引に奪い取ると、美幸の手を引っ張って出口へと向かった。
外へ出ると春先の涼やかな空気が美幸の身体を包み込む。少し気持ちが楽になった美幸はあらためて目の前の晴美へと目を移す。
「ねえ、やっぱり私迷惑だった?」
美幸の視線に気付いた晴美が少し申し訳無さそうな表情で問い掛ける。
「えっ……ううん、そういうわけじゃないけど」
決して晴美が悪いのでは無い事は美幸が一番よく分かっている。
「じゃ、オッケーね」
少し気分がマシになった美幸は、大丈夫と自分に言い聞かせるようにして頷いた。
「よし、じゃあ行こうか」
勢いよく歩き始めた晴美だったが、すぐに後ろを振り向いて苦笑いを浮べた。
「どうしたの?」
小首を傾げる美幸に「家、どこだっけ?」と晴美。
当たり前の話しだが、中学の時に全く会話も無かった者同士、お互いの家を知る由も無い。
「双葉山商店街……」
「あ、あっちの方なんだ。そっかー、全然知らなかった」
こうして二人は夜の街を晴美が半歩ほど前を行く形で美幸の家に向けて歩き始めた。
道中では、二人の会話は思いのほか弾んでいた。
晴美の勤務する病院での奇妙な出来事。美幸の専攻する古典の話し。晴美の意外な趣味。晴美の免許取得時の大暴走。美幸の車について。
全く接点が無いと思っていた二人の会話は晴美がリードする形でどんどん進んで行く。予想以上に趣味が合うのも大きいが、それ以上に晴美の会話の運びの上手さが美幸の口を滑らかにさせていく。
そして、もう一つ大きいのはお酒の力。いつもどちらかと言えば物静かな美幸の今の様子を、美幸をよく知る者が見たら驚くほどによく喋っている。
だが、他方、お酒による悪影響も少しずつその悪意の牙を剥き始めていた。
──気持ち悪い。どうしよう、我慢出来ないかも。
少しずつ口数の少なくなって来た美幸。先ほどから胸のあたりがムカムカとして、店を出た時には薄れていた吐き気が強まっている。
「っ!?」
ふいに強い吐き気が押し寄せ、胃の内容物が喉元までせり上がり、美幸は足を止めた。
「ん? ……どうしたの?」
晴美が不思議そうに振り向き問い掛ける。
「……ううん……なんでもないから」
なんとか飲み込む事に成功したが、口の中は僅かに口内まで侵入してきた吐瀉物の酸っぱさでとても気持ちが悪い。
再び、気力を振り絞り歩き始めるが、一歩毎に胃の中がシェイクされ吐き気が押し寄せてくる。それでも美幸に残された道は、晴美に気付かれないように、そして家まで辿り着けるように、祈りながら歩く事だけだ。
ふと、美幸の視界に公園が入って来た。懐かしい双葉山児童公園。小学校ぐらいまではよく遊びに来た事もある場所だった。
──たしか、トイレがあったはず。でも、どうすれば……。
冷静に分析すればどう考えても家まで堪えれるとは思えない。今のペースで歩いたら絶対に、もうすぐにでも吐いてしまうのは確実だ。
公園を見つめ、美幸の頭の中で二つの考えが浮かび上がる。
一つ目は一度公園で休憩する、という考え。だが、休憩して状況が良くなる見込みがあるわけでも無い。もう一つは、トイレで吐いてしまうという考え。だが、これも美幸はすぐに消去した。外で待っていてもらうにしても、声は間違いなく聞かれてしまう。そうなると心配して晴美がやってくるのは目に見えている。
──やっぱり、ダメ!!
「ねっ。稀宮さん、ちょっと休んでかない?」
まるで美幸の心を読んだかのように晴美が提案した。
「そのっ……」
少し躊躇をして、晴美は続ける。
「稀宮さん、少し気分が悪そうだから」
──気付かれた!!
激しい動揺が美幸を襲う。ギリギリと胃が締め付けられるような感触に冷や汗が流れ落ちる。
「だ、大丈夫」
全くもって大丈夫で無く、それこそ今にも胃の内容物が出てきそうなのに、咄嗟に否定の言葉が口から出る。だが、幾ら言葉で否定しても、美幸の表情を見れば全然大丈夫じゃないのは明らかだ。
「でも……」
「大丈夫!! 大丈夫……だから……」
もう、我慢出来ない。そう感じ取った美幸は、お願いトイレに間に合ってと願い、公園のトイレへと向かって走り出す。
「うぶっ……!?」
だが、心とは裏腹に身体は激しい悲鳴を上げ、胃の内容物が一気に口内へと溢れ出し、苦しさとブチ撒けることに堪える為に足を止めてしまう。こうなってはもう動く事もままならない。
「うぅ……ぐ……」
なんとか飲み込もうと努力するが一度口の中に溢れ出したものを飲み込むのは容易ではない。口の中に広がる強烈な酸味と、吐瀉物を飲み込んでいるという意識が拒否反応に変わり、更に強い吐き気に変わる。
「稀宮さん!!」
しばし呆然としていた晴美が、慌てて美幸の元へとやってくる。
──いやぁ、見ないで!!
美幸は心の中で絶叫した。
「げぇぇ、げっ……ごほっごほっ」
ついに堪えきれなくなった美幸は屈み込んで激しく嘔吐した。ビールが入り水分の多い吐瀉物が地面に叩きつけられてバシャバシャと音を立てる。
「げぇ……おぇ……」
一度吐くともう止まらない。苦しくて瞳に涙を浮べながら、背中を波打たせて嘔吐する。その背中を何かが触れた。
「大丈夫?」
背中を優しく擦りながら晴美が横から美幸の顔を覗き込む。蒼褪めた美幸の顔、そして吐瀉物が掛からないようにと髪をそっと持ち上げた時に見えたうなじ。
「あっ……」
忘れていた昔の記憶が甦る。
「私……一度だけ、稀宮さんと会話した事があったんだ……」
ほとんど独白に近い晴美の言葉に美幸は不思議そうな表情を浮べて晴美を見つめた。
「あっ!!」
だが、その表情が驚愕に歪む。美幸も思い出したのだ。美幸にとってはあまり思い出したくなかった忌まわしい記憶を。
中学三年の春のこと。朝から少し体調が悪かった美幸は二時間目の授業が終わると保健室へと行く事にした。
「……先生……」
「あら。どーした?」
蒼褪めた表情で保健室へと入って来た美幸の声に、保健の先生榊栄子《さかきえいこ》は座っていた椅子をグルリと反転させると、席を立って美幸の傍へとやって来た。
美幸よりも頭一つ高い栄子が、少し身を屈め美幸と目線の高さを合わせ、美幸の顔を覗き込む。
「少し気分が悪くて」
栄子は美幸の額に自分の額を合わせて熱を計り、ふむと頷いた。
「少し熱っぽいかな。どうする。早退するか、ここで少し休んで様子を見るか」
「えっと……出来ればここで」
「んじゃ、そこのベッド使って……熱は計る?」
「大丈夫です」
本当は吐き気を感じていたのだが、美幸はその事を言い出すことは出来なかった。
──大丈夫。寝てれば気分良くなるから。
保健室にある二台のベッド、その一つのベッドに美幸が横になった。栄子は薄手のシーツを美幸の上に掛けると、カーテンを引っ張りベッド周りを覆った。
美幸は上を見上げて目を閉じて眠ろうと努力する。だが、気持ち悪さが胸元から広がってどうにも落ち着かない。
「先生」
美幸がうつらうつらとし始めた頃、誰かが保健室へとやって来た。どこかで聞いた事のある声に美幸が目を覚ます。だが、誰もその声に反応しない。どうやら先生は保健室にいないようだ。
「あれ、先生いない?」
途中で声が小さくなったのは、誰かがベッドにいる事に気付いたのだろう。しばし、入口付近で佇んでいた声の主は、スタスタと美幸のベッドの傍とやって来た。
先生がいない、そして誰かが自分の傍にやって来た。美幸は不安になり、目を閉じて眠ったふりをした。だが、その人物はそのまま美幸の隣のもう一つのベッドへと潜り込んだ。
再び静かになった保健室。美幸は、隣の女生徒が何者なのか気になった。
最初、美幸は声の主も調子が悪くて保健室に来たのかな? と思ったのだが、声の調子からは不調はあまり感じられなかった。かと言って怪我をしたというのも、ベッドに直行では考え難い。
「……ぐっ!?」
その時、忘れかけていた吐き気が急に強さを増した。
「んっ……」
──ダメ。本当に吐きそう。
口許に手をあてがい、美幸はゆっくりと上半身を起こした。だが、そこで美幸は悩んだ。保健室には洗面台がある、だがもしここで吐いたら間違いなく隣の誰かに気づかれる。そして、頭の中で保健室から一番近いトイレの場所を思い出す。
──トイレまで我慢出来る?
自分自身に問い掛ける。だが、もう我慢は限界だ。トイレまで我慢出来るとは思えない。
──でも、それでもやっぱり恥ずかしいわ。
「うぶっ!?」
ふいに強い吐き気と共に、胃の内容物が込み上げて来た。美幸の頬がぷっくりと膨らみ、行き場を失った吐瀉物が固く閉ざした唇の隙間から僅かに飛び出し美幸の手のひらに生暖かい感触が広がる。
「んくっ……はぁはぁ」
なんとか残りを飲み込み、美幸は保健室の洗面台に行く覚悟を決めた。
美幸は身体にあまり衝撃を与えないよう細心の注意を払いながらベッドから降りようとした。だが、美幸の肩がビクッと波打つ。
「……ゲェ!!」
再び胃から熱いものが喉を越えて溢れ出す。美幸は身体を前かがみにして、口許を必死に押さえるが、その手を伝って吐瀉物がポタポタと床に零れ落ちる。
苦しそうに表情を歪め、それでも吐き気から動けずにいる美幸。その隣のベッドの横になっていたシルエットがゆっくりと起き上がり、カーテンを少し開き鮮やかに髪を染めた女生徒が何事かと不審げな表情で顔を出し、すぐに美幸のただならぬ様子に気がついた。
「ちょっと、大丈夫? ……稀宮?」
軽やかにベッドから飛び降りて美幸の前に屈み込む女生徒。その時になって美幸は自分の隣で寝ていたのがクラスメイトの秋山晴美だった事を理解した。
「……秋山さん?」
美幸は少し怯えた表情で晴美の名を呼ぶ。クラスメイトなので聞き覚えのある声なのは当たり前だ。だが、美幸は晴美と会話をした事は全く無かった。所謂「不良」グループに属する晴美は、美幸にとっては恐怖の対象でしかない。その晴美が目の前にいるのだ。
「立てる?」
恐怖と吐き気で硬直する美幸に対して晴美が意外にも優しい口調で声を掛けてきた。驚き不思議そうな表情で美幸は晴美を見上げた。だが、返事の言葉は出てこない。口を開いた途端に全てをぶち撒けてしまいそうで怖かったのだ。
しかし、時は待ってはくれない。いつまでもこの状態ではいられない。美幸はなんとか立ち上がろうと地面に足を付けようと身体を少し動かした、その瞬間。
「ぐぅ……げぇぇ、おえぇぇ!! はぁはぁ……」
身体を苦しげに折り曲げ、美幸は一気に胃の中身をぶち撒けた。朝食の中でも大きな割合を占めていた牛乳とご飯だけが痕跡を残す吐瀉物が美幸の太腿を隠すプリーツスカートの上にベシャベシャと飛び散る。
強烈な臭いに口許を覆いながら、晴美は美幸のすぐ後ろに回り優しく背中を擦ってやる。
「おぇ、げぇ!! ……はぁぁ……げほっ。ごほっ」
「大丈夫よ。苦しかったら全部吐いちゃった方がラクだから」
苦しげに何度もえづき、咳き込む美幸を痛ましそうな表情で斜め後ろから晴美は見つながら声をかけ、背中を何度も擦ってやる。美幸が落ち着くまで、何度もゆっくりと優しく。
少しして、美幸が落ち着いたのを見届けると、晴美は立ち上がった。美幸は晴美の方へとすがるような視線を送る。
「いつまでもこのままじゃマズイよね」
言われて美幸も自分の状態に気付く。ベッドに腰掛けた状態の美幸のスカートは白っぽい吐瀉物でグショグショになっている。更に、足を伝って吐瀉物は床にも落ちているようだ。
美幸は泣きそうなった。そして、この状況で誰か来たらどう対応したらいいのか分からなくて怖くなる。もし、男子が来たらそれこそ何を言われるか分かったものじゃない。
カチャン。入口の小さな音に美幸は「ひっ!」と小さく悲鳴を上げ目をぎゅっと強く瞑る。
「もう大丈夫よ」
晴美の声に、美幸は恐る恐る目を開いたが、そこには誰もいなかった。どうやら晴美が入口の鍵を閉めていただけのようだ。
「兎に角、それをどうにかしないと……まったく、こんな時にえーこちゃんドコ行ったのよ」
保健教諭をちゃん付けで文句を言いながら、晴美はバケツにお湯を注ぎ、タオルを棚から引っ張り出す。あまりにも手馴れた動作の晴美に美幸は驚きの表情を浮かべながら、晴美の動きを見つめていると、晴美は少し照れくさそうな表情を浮べた。
「授業がつまんなくて、ついついココに入り浸ってるうちに覚えちゃって……あ、そうそう着替えってある?」
「あ……今日は体育があるから、体操服持って着てる」
「それじゃ、着替えはオッケーと」
ふと、美幸は疑問に思った。
「あの……」
「ん?」
「秋山さんも同じクラスだし……体育……」
なんと言ってよいのか分からず美幸は戸惑う。
「ああ……そうだった、すっかり忘れてた」
本気で忘れているのか、それとも端から興味が無いのか美幸には判断がつかなかった。美幸にとっては授業に必要なものは絶対に持ってくるのが当たり前だったが、晴美にとってはどうやらそうではないみたいだ。
「あれ、なんで鍵が……おーい」
突然、ドンドンとドアを叩く音と室内へ呼びかける声が聞こえてきた。保健室の主が戻ってきたのだ。
「えーこちゃん、ドコ行ってたの。こんな時に!!」
まったくもう、と毒づきながら晴美が鍵を開ける。
「何が、こんな時? ……あら、大変」
保健室に入った栄子は、美幸の姿に気付き、ついで晴美の準備しているものに気付いた。
「秋山、準備しっかり出来てるじゃない。オッケー、後は私にまかせて」
「当たり前。センセェが本来やるべき事でしょ」
「でも、アンタがいてくれると私としてもすっごく助かるのよ。ねえ、私の弟子にならない?」
「そーいうの興味無いからパス」
晴美は付き合ってられないと言った表情で軽く肩をすくめると「ちょっと教室行ってくる」と保健室を出て行った。
「さてと、それじゃちゃっちゃと後片付けしよっか?」
栄子の言葉に、二人のやり取りを呆然と見ていた美幸は、ハッと我に帰った。
「そんなんだっけ?」
星々が瞬く夜空を、手に缶ジュースを持った晴美が見上げながら呟いた。
「よく覚えてるね……私は、背中を擦ったあたりしか覚えてなかった」
「今……思い出したの。ずっと……忘れてたから」
晴美と同じ飲み物の缶をすぐ脇に置いた美幸は、公園のベンチで休んでいる間に記憶の糸を辿り語り続けた。
「でも、あの後……結局、私はお礼も言えなかった……」
情けないよね、と呟き晴美と同じように夜空を見上げる。
「よし、それじゃあ今ココでお礼を……あ、ちょっと待って、それじゃこうしよう。今度、今日と昔々のお礼も兼ねて、稀宮さん持ちでお食事でもどう?」
「えっ?」
「これも何かの縁だと思うし、それに今日だけじゃ話し足りないし」
美幸ももっと晴美と話していたいという思いはあったけれど、晴美の方から言い出すとは思ってもみなかった。美幸は嬉しくなり、うんうんと頷く。
「じゃあ、約束ね」
二人はお互いの携帯番号を交換すると、すっかり打ち解けた雰囲気の中、美幸の家に向かって再び夜の街を歩き始めた。