『止まらない衝動』

豆電球の弱々しい明かりだけが部屋の中を照らしている。

部屋の端に設えられたベッドの上に広がった純白のシーツが時折もぞもぞと波打つ。

「ん……ふぅ……」

小さな、か細い声がして、大きくシーツが蠢くと、一人の少女の姿が現れた。少女の身体はうっすらと汗ばみ、長い黒髪が色白の額にぴっとりと張り付いている。苦しげに荒い呼吸で、少女が目を開く。その瞳は熱の所為か少し潤んでいる。

少女の名は九条沙々羅。

前日の朝から少し体調の良くなかった沙々羅は、夜になって本格的に熱が出始めた為、いつもよりも早い時間にベッドへと入った。だが、うつらうつらと浅い眠りを繰り返すばかりで深い眠りに落ちる事が出来ないでいた。そして、僅かな眠りが途切れる度に、少しずつ吐き気とお腹の痛みから来る便意が強さを増して行くのを感じていた。

ギュルルル……。

布団の中で沙々羅はお腹を抱いて丸くなる。先ほどからお腹を刺激する痛みに、お尻の穴が悲鳴を上げ始めている。限界に近いと悟った沙々羅は、それまでのなんとか寝ようとしていた努力を放棄して、トイレに行く事を決心した。

沙々羅は胃の周囲に広がるムカムカ感と強い便意に気をつけながらゆっくりとその身を起こすと、ベッドからそっと足を床に下ろす。床のひんやりとした感触が心地良くて、暫くその感触を楽しんだ。

汗でしめった淡いピンクのパジャマが身体にまとわりつく嫌な感じがする。沙々羅は着替えようかと思ったが、まず先にトイレに行った方が良いと判断した。

熱で少しふらつく足下に注意しながら立ち上がると部屋を出た沙々羅だったが、廊下の冷たい空気に汗で湿ったパジャマが冷えて寒気を感じ身震いする。

グルル、ギュル、ゴロゴロロロ!!

「あっ……」

寒さに刺激されたのか突然お腹が音を立てた。もちろん音だけで済みはしない。

「くぅ……」

横になっていた時とは比べものにならない強烈な便意。少女の小さなお腹の中を満たす茶色の汚物が出口を求めて激しく暴れ回る。沙々羅はお腹をさすりながら、前屈みになって嵐が過ぎ去るのを必死で耐えながら待つしかなかった。

しばらくそのままの姿勢でいると波が治まり、沙々羅は階下のトイレに向かってゆっくりとお腹を刺激しないように気をつけながら歩き出した。

一段一段、重い身体を引き摺りながら階段を下りる。途中、再び大きな波を耐え抜きやっとの思いで一階に到着した。もうトイレは目と鼻の先だ。

良かった。何とか間に合った。

そんな事を考えながらトイレのドアノブに手を掛けた、その時。

「……ひっ!!」

まるで腸が引き摺り出されるような強烈な衝撃が下腹部からお尻までを一気に貫いた。

ブジュ、ジュ、ブリュリュ……。

「うっ……く……」

あまりにも突然に、そして僅かな油断の間隙を縫って沙々羅の華奢な身体を急襲した便意は、圧倒的なスピードとパワーで沙々羅がお尻に力を込めて押さえ込む間すらも与えなかった。

ショーツの中に溢れ出す生暖かいどろりとした汚物の感触に沙々羅は泣きそうになった。

だが、便意は沙々羅に泣く暇さえ与えない。

再びの強烈な便意に沙々羅は慌ててドアノブを引っ掴み、トイレへと飛び込む。第二波を必死に押さえ込みながら身体を反転させ腰を落としながら両手でパジャマのズボンを下ろそうとした。

ブリュ、ブビュ!!

汚らしい排泄音が鳴り響き、沙々羅は見たくないものから目を逸らすように目をぎゅっと閉じた。

ビチャ……。

ギリギリの状態でズボンを下ろしながら便座に座って排泄する、という沙々羅の目論見は僅かな差で大失敗に終わったのだ。それどころか、更に悲惨な結末が待っていた。沙々羅がズボンを下ろすよりも早くに排泄物は噴き出し、そしてそのショックにズボンを下ろす事を忘れ、そのまま便座に座り込んでしまった。

「っ……」

便座とお尻の間に挟まれ、柔らかな下痢便が押し出される。ぬるりとした感触は太ももの裏側にまで広がる。

しかし、これで排泄が終わった訳ではなかった。まだ、沙々羅のお腹の中にはこれまでに排泄した以上の、そして更に液体に近い水下痢が残っていた。

ブシャ、ブジュリュ、グリュ、ブピュ……ブシャアァァ!!ジャジャアアァァーー!!

残りの過半数が堰を切ったように沙々羅の小さなすぼみを押し開いて怒濤の勢いで流れ出した。それは大ではなく、まるで小のような液体の下痢便だった。下痢便はショーツを茶色に染め、更にズボンをも浸食する。特に水に近い液状便はパジャマのズボンの細かな繊維の隙間を縫って、外へと溢れ出す。

「うっ……あぁ……」

沙々羅は惨状を拒絶するかのように再び目を閉じる。だが、目を閉じてもそこで起きた現実は揺るがしようも無い。むしろ、ほんの一瞬目を向けた時に脳裏に焼き付いた光景が、閉じた瞳の更に奥で鮮明に浮かび上がる。

ジュジュ……ブチュ……。

相変わらず漏れ続ける下痢の音、そして換気扇を回しても濃密にトイレ中を満たす強烈な臭い。

強烈な臭いと排泄に伴う疲労、そして更に高まる熱。それが、沙々羅の胃袋を激しく収縮させる。

「うぶっ……」

突然の強い吐き気。沙々羅は両手で口を塞ぎ、なんとか喉から口内に溢れ出した吐瀉物が外に出るのを防ぐ。

「う……はぁ……はぁ……」

渾身の力を振り絞り耐えきった。そう、沙々羅が確信した刹那。

ブリュ……。

お尻から再び下痢が溢れ出した。沙々羅の意識が、一瞬そちらに向けられた。そして、それが更なる悲劇の幕を開いた。

「ぐっ……げええぇぇ!!おえぇぇ!!」

咄嗟に差し出した両手に溢れるほどの胃の内容物を、沙々羅は一気にもどした。

両手に熱を帯びた嘔吐物がかかり、更にびちゃびちゃとパジャマの胸元からお腹の辺りを汚し、ズボンの膝の上にも次々と落下する。

「げほっ……う、げぇ。ごぼっ……はぁ……。おええぇぇ!!」

一度、嘔吐が始まると止まらない。何度も、何度も胃が繰り返し激しく反応する。その度に、沙々羅の淡いピンクのパジャマが、部分的に夕食の原形をとどめた嘔吐物によって穢されていく。粘つく掌を見つめ、沙々羅の表情が歪む。

「ううっ……ひっ、ぐす……お、かあさん……」

苦しくて、情けなくて、恥ずかしくて、沙々羅はついに泣き出した。

異変を感じ紫苑が目を覚ましたのはその直後の事であった。

胸騒ぎにも似た嫌な感覚に、紫苑はショールを羽織って部屋を出る。沙々羅の部屋の前まで来た紫苑は、沙々羅の部屋のドアをノックしようとするが、階下から聞こえるすすり泣くような声に気付いた。

念のために沙々羅の部屋を確認するが、やはり室内には沙々羅の姿は見られない。

U字型の階段を丁度半分折り返しの所まで来ると、右手のトイレのある方から僅かに明かりが漏れている事に気付く。そして、すすり泣く声も先ほどよりもはっきりと聞こえる。

トイレから漂う強烈な臭いに顔をしかめながら、僅かに隙間のあるドアを開く。

「沙々羅!?」

あまりの惨状に紫苑は愛娘の名を呼んだ後、二の句が継げなかった。

便座に腰を落とし、ぐったりとした状態ですすり泣く沙々羅。沙々羅のお気に入りの淡いピンクのパジャマは嘔吐物ですっかり汚れてしまい、ズボンは半分以上茶色に染まっている。ズボンの裾からポタポタと零れる茶色の液体。沙々羅が肩を震わすたびに蠢く嘔吐物。沙々羅の掌、口元、髪の毛にも嘔吐物はこびり付いている。

口よりも先に紫苑の身体が動いた。

自分の身が汚れる事もお構いなしに沙々羅の中学生にしては小柄で細い身体を抱き上げる。

「お……かあ、さん?」

沙々羅はそこで初めて母の存在に気付いた。そして、汚れた両手で母の身体をぎゅっと抱きしめる。

「大丈夫。もう大丈夫だから」

紫苑は沙々羅の気持ちを落ち着けようと「大丈夫」と何度も繰り返し、軽くその背中を撫でながら風呂場へと向かった。

風呂場に辿り着くと沙々羅のパジャマを脱がし、紫苑自身もパジャマを脱いで一緒に汚れを洗い落とす。汚れがすっかり落ちるとタオルでしっかりと水気を拭き取り、沙々羅を布団へと寝かしつけた。

「……ごちそうさま」

弱々しく呟いた沙々羅の前に並ぶ朝食はいつもの半分ほどしか減っていない。両手を合わせた沙々羅の顔色は悪く、食事中に何度かもどしそうになった程の状態だ。

「沙々羅……病院に行くから用意だけはしておいてね」

自ら片づけようとした沙々羅を制して食器を片づける紫苑の言葉に沙々羅はこくんと頷きひとまず自室へと戻った。

自室に戻るとベッドに倒れ込んだ沙々羅だったが、何かを思い出したように起きあがると机に向かう。

綺麗に整頓された机の片隅にそっと置かれた携帯電話を手に取ると、慣れた手つきでメールを送る。相手はクラスメイトでいつも一緒に登校している工藤桐華だ。用件はいたってシンプルに「今日は調子が悪いのでお休みします」だ。これ以上、何一つ付け加えない。余計な事を書くとそれだけで申し訳ない気持ちになるからだ。

送信を済ませると沙々羅は再びベッドへと倒れ込んだ。

今にも雪を降らせそうな分厚い雲が空を覆う薄暗い朝の道路を、柔らかな流線型のボディに真紅のカラーリングの車が駆け抜ける。

運転席にはハンドルをしっかりと握りしめたスーツ姿の紫苑。そして、時折気遣わしげに紫苑がバックミラー越しに見つめる後部座席には、両手で握りしめた白のタオルで口を覆い、吐き気を必死で堪える沙々羅の姿。

沙々羅の膝の上には皺の少ないコンビニ袋が車の振動に合わせて細かく揺れている。その振動は沙々羅のお腹にもボディブローのように小さく、だが確実にダメージを与えていた。

紫苑が車を走らせて目指すのは、車でおよそ十分ほどの時間が掛かる加賀見診療所である。自宅の近所にも病院はあるが、沙々羅が病気の時には少し離れた加賀見診療所にいつも通っていた。

その理由は、加賀見診療所の所長である女医の加賀見悠が以前、市内最大の病院である姫城中央病院の小児科医として小さな頃から沙々羅を診てもらっていたからだ。この姫城中央病院は沙々羅が生まれた病院であり、また紫苑の事務所の近くという事から必然的に姫城中央病院が多く利用される事となった。

その加賀見悠が四年ほど前、突如姫城中央病院の職を辞して開いたのが加賀見診療所であった。この診療所は主に小児科・内科を専門とし、また確実に女性の医者に診てもらえるという事もあってか、十代から二十代の女性が多く訪れる病院でもある。

とは言えあまりにも遠くてはさすがに行く事も出来ないが、幸運にも加賀見診療所は丁度九条家と紫苑の仕事場の中間付近に位置する場所に立地していたのであった。

更に付け加えるならば、なじみであるが故に色々と融通が利くというのも利点である。現在の時間は本来であればまだ病院の始まっていない時間である。だが、沙々羅の場合には少しぐらい早い時間でも連絡すれば診てもらえるのだ。

「はぁ……はぁ……」

元々車に強い方では無い沙々羅だが、いつもであればこの程度で車に酔う事はない。だが、体調が最悪の今の沙々羅にとってこの僅かな距離でさえも車酔いしてしまう状態であった。

それでもなんとか沙々羅がもどす事も無く、紫苑の車は診療所の駐車場へと辿り着く。先に紫苑が車を降り、後部座席へと回る。

「沙々羅?」

ドアを開き、身体を折り曲げて紫苑は沙々羅に手を伸ばす。だが、紫苑の方を向いた沙々羅は身じろぎせずに泣き出しそうな瞳で紫苑を見つめる。

「吐きそうなの?」

紫苑が尋ねると沙々羅は小さく首を縦に動かした。

「そう……困ったわね」

チラリと目をフロントガラスにぶら下がっている小さな柱時計に向け、紫苑の表情が僅かに曇る。沙々羅もその意味はすぐに理解した。紫苑の事務所は、朝から大事な会議がある。その会議の開始まであまり時間が無いのだ。だが、沙々羅がここにいる限り前にも後ろにも進めない。

沙々羅は小さな頃から母に迷惑を沢山掛けてきた。そして事ある毎に、沙々羅の所為で母は仕事を休んだり途中で抜け出したりして来た。いつしか沙々羅は、母に対して出来る限り──特に仕事の時に──迷惑をかけないようにしたいと思うようになっていた。

しかし事はそう簡単には運ばない。少し身体を動かすだけで胃がひっくり返りそうになる。しかし、ここまで来て車の中を汚す事だけは絶対に避けたかった。タオルでぎゅっと口に栓をすると、空いた手で紫苑の手を掴む。紫苑の体温以上に暖かな温もりを掌に感じながら、一気に車外へと躍り出た沙々羅だったが、その場にうずくまる。

「っ……ぐ、げええぇぇっ!!」

口許に当てたタオルを慌てて口許から外すと、沙々羅の口から今まで必死に我慢していたものが噴き出した。朝食のお粥を中心とした嘔吐物がほとんど消化される事無く駐車場のコンクリートの地面に綺麗な円形のゲロ溜まりを作る。

「はぁ……はぁ……う、ぇ……」

一気に胃の中身をブチ撒けた沙々羅だが、吐き気はすぐには治まらない。何度か苦しそうにえづいてみても、出てくるものがほとんど無い。それでも沙々羅は紫苑に背中をさすられながらえづき続けた。

沙々羅の様子がやっと落ち着き始めた頃。診療所の入り口の自動ドアが開き、一人のナース服姿の女性が紫苑と沙々羅の姿を見つけて駆け寄って来る。

「沙々羅ちゃん!!」

お下げ髪を揺らして二人の側に駆け寄ったナース服姿の女性は、加賀見診療所のスタッフの一人で主に診察の助手を務める藤原瑞希だった。

瑞希の呼びかけに青ざめた表情で沙々羅は顔を上げる。

「いつまでもこんな所にいたら風邪を引くわ。沙々羅ちゃん、立てる?」

微かに頷き、膝に手を当て沙々羅がゆっくりと立ち上がる。その身体を紫苑と瑞希が支えるようにして三人は診療所の入り口へと向かった。

二重になった自動ドアを抜けると清潔感漂う待合所が姿を見せる。まだ病院の始まる時間まで少し時間があるので他に人は見当たらない。閑散とした中を沙々羅は紫苑と瑞希に支えられてソファーの空いている場所に腰を下ろす。

パタパタとスリッパを鳴らして瑞希は慌ただしく奥へと消えていき、一方紫苑は受付で何やら書類にペンを走らせている。

ぐったりしながらそんな紫苑を見つめていると瑞希が戻ってきた。瑞希は手に水の入ったコップと空の器を持っている。

「はい。これで口を濯いで」

瑞希からコップを受け取ると一口、水を口に含む。先ほどまで口の中に広がっていた嫌な感触がすーっと薄れていった。しっかりと濯いで、口の中の水を瑞希が持つ器に吐き出す。もう一度口を濯ぐと、沙々羅はコップに残った水をぐっと飲み干した。

幾分気分が和らいだ沙々羅だったが、もしもの時に備えて器をすぐ脇に置いておく。

瑞希が診察室の方へと消えると、丁度入れ違いになるように受け付けから紫苑と受付にいた佐々木美紀が沙々羅のもとへやって来た。

ソファーにもたれ、青ざめた表情で辛そうにしている沙々羅の様子をあらためて目にした紫苑が口を開く。

「やっぱりお母さんもついていた方が……」

会議は大切だが、やはり自分の娘の事が一番大切だ。

だが、紫苑の言葉に沙々羅は首を左右に振ると、少し微笑むんだ。

「私は……大丈夫だから」

沙々羅は母の仕事の妨げになる事はとても嫌がる。紫苑はもちろんその事を重々承知していた。

美紀がそこへ助け船を出す。

「そうです。紫苑さんはお仕事をしっかりする。沙々羅ちゃんは、病気を治す。お互いにそれが最良ですよ。沙々羅ちゃんの事は私どもにお任せ下さい」

「そう……」

それでも紫苑は心配そうに沙々羅を見つめる。沙々羅はその視線をしっかりと受け止め、口には出さずに想いを告げる。

「そうね……分かったわ」

紫苑はそう言って腰を落とすと、沙々羅と同じ目線で沙々羅の頭を優しく撫でる。

「早く良くなってね」

「うん。お母さんも仕事頑張って」

頷き紫苑は立ち上がると、今度は美紀の方へと向き直り深く頭を下げた。

「娘をよろしくお願いします」

沙々羅と美紀に見送られて紫苑は仕事へと向かった。

「沙々羅ちゃん、もう少しここで待っててくれるかな?今、奥で準備していると思うの。私は受付にいるから、何かあったら呼んでね」

そう言って美紀も本来の持ち場に戻ると、待合所は沙々羅一人となった。他に患者のいない物静かな空間は少し不安になる。沙々羅は気を紛らわそうと近くに置いてあった雑誌を手に取った。

キュルル……。

雑誌のページを手繰っていた沙々羅の手が止まる。昨夜沙々羅を苦しめた記憶が甦る。沙々羅は、昨夜の事を思い出さないようにと再び雑誌に集中する。だがお腹の調子は一気に下降線を辿り始める。

ギュルルル……。

「っ!!」

大きな便意の波が押し寄せる。受付を行ったり来たりしている美紀は全く沙々羅の様子に気付かない。沙々羅は、その事を確認してそっと片手でお腹をさする。

「っ……はぁ……」

しばらくすると波が治まった。だが、次の波がすぐにやってくるのは明白だ。沙々羅はトイレの方へと目を向ける。

──どうしたら。

トイレに今のうちに行っておいた方が良いのでは、とは思う。だが、その一方でまだ大丈夫だろう、とも思ってしまう。トイレに行くのは出来るだけ少ない回数の方が望ましいと沙々羅は思っている。何度もトイレに行くのを見られると、どうしても相手が何を思っているのかと気になってしまうからだ。その為、沙々羅はトイレ──特に大きい方──に行くのは出来る限りギリギリまで我慢してから、としていた。

それに、時折大きな波は来るがまだ限界とは言えない状態だ。ただ診察の時にトイレに行きたくなったら、と思うと少し不安になる。

──やっぱりお手洗いに……。

「沙々羅ちゃん」

まるで沙々羅の不安を狙い撃つかのようなタイミングで瑞希が姿を見せた。

「沙々羅ちゃん、先生の方はそろそろ準備も出来たしって言ってるけど、どうかな?まだ、無理なら待ってもらうけど」

そもそもこちらが無理を言って早くに診療所へとやって来たのに待たせるなんてとんでもない事だと思う。それに、さっさと診察を終えてからトイレに行こう。それまでは、きっと大丈夫。我慢できる。そんな風に思った沙々羅は、こくんと頷くと立ち上がる。

沙々羅は、前方を歩く瑞希の歩く毎に可愛く揺れるおさげに導かれるようにして診察室へと向かった。

診察室に入るといつものように加賀見悠が足を組んで椅子に悠然と腰掛けている。初めてここに足を踏み入れた者のほとんどは、まるでモデルのような整った顔立ちと抜群のプロポーションに、部屋を間違えたのではないかと錯覚して足を止める。街に出れば知らない人間の十人中十人が医者とは思わない、それが加賀見悠という女医である。

「おはよう九条さん」

艶やかな笑みで挨拶すると、悠は沙々羅に悠の向かいの椅子を勧める。

悠は、人の名前を呼ぶ時は必ず「さん」付けだ。けれど悠の場合、その呼び方がなんともしっくりと来るのである。

「おはようございます」

「藤原さん、体温は測った?」

沙々羅の斜め後ろに立つ瑞希へと問いかける。

「あっ……」

悠の問いに瑞希は口に手を当て「しまった」という表情を浮かべる。

「すみません、ちょっとバタバタしていたので」

「まあいいわ」

そう言うと悠は突然、顔を沙々羅の顔へと近づける。驚き、顔がぶつかりそうになった沙々羅は反射的に目を閉じた。するとひんやりとした感触が沙々羅の額に広がる。

「そうね……」

額を合わせて熱を測っているのだ。

「三十八度七……八分ってとこかしら」

額のひんやりとした感触が消え、沙々羅は恐る恐る目を開く。悠は手許のカルテに何かを書き込んでいる。おそらく今測った体温だろう。

「ふぅん……嘔吐と下痢ね。熱もあるし……まあ、風邪だと思うけど」

カルテを見つめながら悠が呟く。

「一応、喉を見ておきましょう。藤原さん」

悠の言葉に瑞希は膿盆を用意する。風邪の診察時に口を開き喉の腫れ具合を確認するのはよく見られる光景だが、口を大きく開いたり、舌圧子を深く突っ込まれたりする時にもどしたりえづいたりする体質の人がいる。沙々羅もその傾向が強く、以前に大量にもどした事もあった。それ以来『もしも』の為に膿盆を用意するのだ。

「さっ、口を開いて」

沙々羅が口を開くと、悠はライト付きの舌圧子を口内へと進入させる。

「っ……」

舌の上をひんやりとした感触が滑る。

ギュルルル……。

緊張に強ばっていた沙々羅の下腹部が不気味な唸り声を上げる。突然の事に沙々羅は僅かに身をよじった。

「んんっ……!!」

身をよじった時に、沙々羅の口内深くへと進入しようとしていた舌圧子が喉の奥に触れ、喉を強く刺激した。

「っ……おぇ!!」

先ほど吐くべきものを全て吐き出した為にえづいた所で出るものはほとんど無い。僅かに胃の底に溜まっていた胃液混じりのものが瑞希の差し出した膿盆の上にポタポタと落ちる。

「あっ……ごめんなさい」

悠は慌てて舌圧子を引っ込める。

「っ……はぁ……私が、動いたから……」

沙々羅は小さく首を左右に振る。悪いのは悠ではない、突然の事とは言え身体を動かした沙々羅自身が悪かったのだから。

沙々羅は再び口を開こうとする。

「あ、もういいわよ。だいたい判ったから。じゃあ、上をちょっと上げて頂戴」

だが、沙々羅の様子がおかしい。悠の言葉にいつもなら素直に従うはず沙々羅が、服に手を掛ける事もなく、身体を強ばらせて切なげな表情を浮かべている。

ギュル……グリュ……。

「九条さん……どうしたの?」

不思議そうに沙々羅を見つめた悠も異変を察知した。風邪で具合が悪いだけと思っていたが、どうやらそれだけでは無いようだ。悠は原因を見極めようとする。

原因はあっさりと沙々羅の行動から解明された。

「うぅ……」

表情を苦しげに歪めた沙々羅が身体を前のめりにして両手でお腹をさする。

「九条さん。お腹の調子が悪いの?」

確認するように悠が尋ねると、沙々羅は「ごめんなさい」と呟きながらこくりと頷いた。

「藤原さん、九条さんをトイレに連れて行ってあげて」

「はい」

膿盆を診察室のベッドの上に乗せると、沙々羅の横に立ちそっと肩に手を置く。

「沙々羅ちゃん、立てる?」

瑞希の呼びかけに頷きはするものの、現実には強烈な便意を耐えるので精一杯だった。

グギュルル……。

なんとか立ってトイレに行きたいと思う沙々羅だが、便意は容赦なく苛烈さを増していく。先ほどよりも更に身体を折り曲げて必死に耐える。だが、少しずつお尻の穴が広がっていくような感覚に襲われる。

「う……あぁ……」

ブッ、ブリュリュ……。

肩を震わせて沙々羅が呻き声を上げ、室内に異臭が立ちこめる。沙々羅は、ついに耐えきれずにショーツの中に軟便を排泄してしまった。だが、まだ全てが出てしまったわけではない。沙々羅は残りが出ないようにと再びお尻の穴をすぼめる。

しかし、いつまでもこの場に座り込んでいてはいけないのは明白だ。沙々羅はなんとか足に力を込めて立ち上がる。

「あっ……嫌っ!!いやぁっっ!!」

ブブッ、ブリュ、ブバッ、ビュ、ブシャアアァァ!!

沙々羅が大きな悲鳴を上げ、それをかき消すような下品な音が診察室に響き渡った。ショーツ一杯に溢れた軟便、そしてその後に噴出する液状便がスカートの裏側・足を伝い沙々羅の足下に広がっていく。そして、ショーツ一杯に溢れた軟便が自重に耐えかねて、あるものは足を伝い、またあるものは直接床へと、ビチャッと汚らしい音を立てて落下する。

「あ……い……やぁ……ううっ、く……」

呆然としながら顔を両手で覆う沙々羅。

またやってしまった。夜中に大失敗したばかりなのに、同じ過ちを繰り返していまった。

情けなくて、そして人前で漏らしてしまった事への羞恥心で沙々羅は呆然とその場に立ち尽くす。

「あっ!!」

ショックと一気に水分を失った事による疲労で沙々羅が前方へとよろめく。その身体を悠が咄嗟に抱き留めた。

「せん……せぇ……ごめんなさい、私……」

言葉が続かない。なんと言って謝罪すれば良いのか、言葉が思い浮かばない。そんな沙々羅の背中を優しく悠は撫で続ける。

「何も言わなくていいの。九条さんが気に病む事じゃないわ」

もちろん悠はそれが気休めにしかならないとわかっている。沙々羅の性格からすれば、それこそ色々と悩んでしまうのは明白だ。けれど今はこうして慰めの言葉をもって、沙々羅の苦しみを少しでも和らげるしかない。

「先生」

事が起こった直後、迅速に行動した瑞希が湯気立つバケツとタオルを手に戻ってくる。

「藤原さん、掃除をお願いするわ。あ、その前にビニールシートをそこに敷いて」

悠の指示に瑞希は、ビニールシートを戸棚から取り出すと悠の示した場所に敷き。そして、すぐに沙々羅の足下の汚れを濡れタオルで拭き始めた。

「さあ、九条さん、こっちに来て」

心身共に疲労の限界にある沙々羅を、悠はそっと支えてビニールシートの敷いてある場所へと移動する。

「少しの間、一人で立っていられる?」

「……はい」

悠は沙々羅の後ろに回ると屈んでホックを外し、そっとスカートを下ろす。それまでスカートの内側に籠もっていた臭気が一気に拡散し、悠は僅かに顔をしかめた。だがすぐに表情を正すと、少し視線を上に向けた。沙々羅は今のに気付いていないようだ。医者が患者の前でこんな顔をしてはいけない。

更に汚れていない場所をそっと掴みショーツを下ろすと、ショーツの内側に溜まっていた排泄物がボタボタと落下していく。

羞恥心からか、沙々羅の身体が小刻みに震えている。

悠はお湯を絞った暖かなタオルでそっと沙々羅の下半身の汚れを拭き取る。すべすべの少女の肌から茶色の汚れが落ち、姿を現した白磁のような肌がほんのりと朱に染まる。悠はそんな沙々羅の若々しい肌をちょっぴり羨ましく思った。

「今の九条さんの体調だと飲み薬は吐いてしまう可能性があるわね」

汚れを落とした沙々羅が、隣室の処置室で着替えているその時、診察室にて悠と瑞希が何事かを話し合っている。

「坐薬もちょっと無理そうですね」

「そうなると……点滴しかないわね」

「私もそう思います。けど……」

「そうね。今の九条さんの体調だと……けれど他に選択肢は無いわ。九条さんには悪いけど、アレでいきましょう」

「アレ……ですか?」

「そう……アレよ」

「え!?先生……それは……」

「九条さん位の年齢になるとちょっと抵抗があるかもしれないけど、これがベストだと思うの」

「それはわかりますが……」

「藤原さん!!」

急に悠の口調が厳しくなる。

「はっ、はい」

「それじゃあ、説明よろしくね」

「えー!?」

瑞希の叫びが虚しく響いた。

「よく聴いて欲しいの」

病院が用意したシンプルな白のパジャマに着替え、処置室のベッドに横になっていた沙々羅に瑞希が優しく話しかける。

「これは先生と相談して決めた事なの」

口調が少し真剣味を帯びる。

「はい……」

沙々羅は何事だろう、と不安な表情を浮かべて瑞希を見つめる。

「今の沙々羅ちゃんの体調だとお薬は吐いてしまうし、坐薬もお腹の調子考えると難しいの。そこで、まず点滴をするという事になったの」

それだけならよくある事だ。沙々羅は瑞希の真剣な口調に、更にその先に何かあるのだろうか?と疑問に思う。

「今の沙々羅ちゃんの体調で点滴をすると、多分眠っちゃうと思うの。で、その時にお腹の調子が悪くなったらちょっと困った事になると思うし、もし起きていても私たちも忙しくてすぐに行けない可能性もあるから」

瑞希の言うとおりだ。今は冬の中でももっとも風邪の多い時期であり、それこそいつもよりも更に忙しくなるだろう。それに体調が悪い時にしてもらう点滴の最中に眠ってしまうのはいつもの事だった。

けれど、その事に対してどう対応するのだろう?沙々羅には何も思いつかなかった。

「でね、先生と話した結果、オムツが最良の選択肢という結論に辿り着いたの」

──オムツ!?

驚きと激しい羞恥心に沙々羅の顔が紅潮する。

「そ、そんな……」

以前に激しい嘔吐と下痢で入院した時にオムツを履いた事があったが、二度と思い出すのも嫌な出来事だった。あの時、オムツが取れたらもう二度とオムツなんて履きたく無いと思ったのに、再びオムツを履かなくてはいけない事になるとは。

しかし悠の取った選択肢はこれまでにも何度も、それは沙々羅にとっては不幸な事だが、正しい選択であった。だから沙々羅は悠の事を信頼している。その悠が言うのだから、やはりそれが一番正しいのだろう。

それに早く良くなりたい。それが沙々羅の最も強い願いだ。

──それでも、やっぱり恥ずかしい。

しばらくの沈黙の後、沙々羅は首を縦に振って肯定の意を伝えた。



瑞希の手でオムツを履かされた沙々羅は、羞恥心とオムツの慣れない感触から、点滴をし始めてもすぐには眠らなかった。だが、しばらくするとうつらうつらと瞼が重くなり。いつしか眠りに落ちていた。

カーテンで周囲から遮断されたベッドの上で沙々羅はこんこんと眠り続ける。時折、暇を見つけては様子を窺いに来た看護婦たちも沙々羅の眠りっぷりに、徐々にその頻度を減らす。そして、静かな寝息だけが聞こえる処置室となった。

ブリュリュ……。

夢と現の境をゆらゆらと漂う沙々羅の耳に気持ちの悪くなるような音が聞こえた。なんだろう?と思いながら、沙々羅は寝返りをうつ。

グチュ……。

何やら異様な感触、そして強烈な臭気。

何?何この臭い。やだ、気持ち悪い……。

臭いから逃れようともがいても、まとわりついて離れない。

「ぁ……」

沙々羅が目を開く。

現実世界に戻っても臭気は消えないどころか更に密度を増したように感じた。

そして、お尻の周囲に広がる生暖かい感触に、沙々羅は慌てて手を伸ばす。指先がパジャマ越しに、普段のショーツと異なる柔らかな感触を捉えた。

「あっ……」

寝る前の記憶が甦り、沙々羅の顔が真っ赤に染まる。だが、悠の決断は正しかったのだ。もし、オムツをしていなかったら今頃沙々羅の横になっている布団は大変な事になっていただろう。それは良かったが、沙々羅の心は暗澹たるものだった。結局、お漏らししたという事実に違いは無い。お尻に感じる、生暖かく、ひどくぬるぬるした感触がとても気持ち悪い。

グルルル……ゴロ、ギュルル……。

──嘘、また……。

お腹が不気味な音を鳴らす。下痢はまだ終わったわけではなかった。それも急激に、そして強い便意が押し寄せてくる。

点滴は既に終わったのか取り外されている。今の状態ならば起きあがってトイレに行く事も不可能では無い。だが、カーテンを開いて外へと出る事がとても怖く感じた。オムツを履いた沙々羅の下半身はパジャマのズボンを履いているとはいえ、明らかにおかしなサイズが見て取れるだろう。その状態でトイレへと向かうのはとても勇気がいるが、沙々羅にはとてもそんな行動を取るだけの勇気がなかった。

しかも、トイレは待合室の向こう側なのだ。とてもではないが、待合室の視線に耐えてトイレになんて行けない。

グルルルル……。

「ひっ……」

お尻の穴に力を入れて我慢しようとするものの、水のような液状便がトロトロと溢れ出すのがはっきりとわかる。そして溢れ出す量が少しずつ多くなる。

──もう、ダメっ……!!

ジャアアアアアアアアーーーー!!

水が勢いよく流れるような音が鳴り響き、オムツの中に暖かな水気が広がっていく。臭いも更に強烈さを増して部屋に広がる。

「もう、嫌っ……」

枕に顔をうずめて、沙々羅は弱々しく呟き、嗚咽を漏らした。

「うっ……ぐすっ……ひっく……」

沙々羅が肩を震わすたび、オムツの中が動き、ぬるりとした嫌な感触がする。だが、逃れる事は出来ない。誰かが救いの手を差し伸べない限り、沙々羅一人ではどうする事も出来なかった。

逃れられない拷問のような時間は、この後、瑞希が戻ってくるまで続いた。