『感触を求めて』

傾いた夕陽が窓から部屋に差し込み、室内を鮮やかな朱に染めている。

ここは真理原絵梨那の自室だ。

絵梨那はベッドに仰向けになり、両手を天に伸ばした。絵梨那の細く綺麗な色白の腕が薄闇に包まれた室内に二つの塔を作る。

今日の体育の授業で藤崎綾佳にボールをぶつけて嘔吐させた時から、不思議な感覚が全身を包んでいる。その感触の正体が分からずに少し混乱気味の絵梨那は、先程からベッドの上でずっと考えていた。

「なんですの、この不思議な感覚は?」

疑問の声は宙に消え、答えは生まれて来ない。

ただ、忌みすべき筈の『嘔吐』が脳裏から離れないでいる。

もう一度、彼女に嘔吐させれば答えが出るのではないか?

そして絵梨那は決意した。

一日学校を休んだ藤崎綾佳だが、すぐに学校の授業に戻る事にした。ここで長期離脱してはせっかく頑張って入学した意味が失われてしまうし、あまり両親に心配をかける事もしたくなかった。

いつもと同じ、いたって普通の日常。そう心の中でなんども思いながら教室へと足を踏み入れた。

綾佳が教室へと入った瞬間、一瞬静寂が部屋を包み、クラスメイトが綾佳へと視線を送る。これまでとは少し違った、戸惑いにも似た視線が多い。

教室を見渡していた綾佳の背後から声がかけられた。

「あら、おはよう藤崎さん。臭いはもうとれたかしら? 臭うなら近くに寄らないで下さないね、臭いが移ると困りますから」

開口一番、絵梨那の強烈な挨拶に綾佳は返す言葉も無く沈黙してしまう。教室の中に重苦しい沈黙が下りる。残酷な言葉を放った絵梨那は、少し気が晴れたのか少し柔らかな表情に戻ると綾佳に背を向けて自分の席に戻った。

何故あんな事を言われるのだろう? ショックを受けた綾佳はノロノロと自分の席に着いた。

お昼休み。鞄からお弁当を取り出していた綾佳の頭の上に影が降りる。

絵梨那が微笑みながら綾佳を見下ろしている。

「あ……あの……」

何か悪い事でもしたのだろうか? 不安そうに絵梨那を見上げる。

「藤崎さん、わたくしたちと一緒に食事をいかがかしら?」

いかがかしら、と言われても。綾佳は救いを求めるように、いつも一緒に食事を食べているメンバーの方を見る。だが、まるで綾佳から逃げるかのように視線を合わせようとしない。

「まさか、わたくしたちのお誘いを断わるおつもりですの?」

丁寧だが、冷たい言葉。それが逆に怖い。

「わ……わかりました」

少し怯えながらも綾佳は、絵梨那と一緒に食事をする事を決断するしかなかった。

「それじゃあ、参りましょう」

そう言うと、綾佳がついて来るのも確かめずに一人さっさと歩き出した。綾佳もお弁当を手に持って、慌てて後を追った。

絵梨那の向かった先。そこは桜の木が周りを囲む、噴水広場であった。

幾つかあるベンチの一つにいつも絵梨那の傍にいるクラスメイト・下田夕子とは伊庭千鶴子の二人であった。

「ちゃんと場所は確保出来たようね」

頷くと、さあ藤崎さん、と手招きをして綾佳を絵梨那のすぐ横へと座らせる。

「それでは、みなさんいただきましょう」

それぞれがお弁当を開いて食事を始める。

綾佳もお弁当を開けて食べ始める。

だが、綾佳はすぐ横に絵梨那がいる事で緊張してあまり食欲が出ない。そして、嫌な事ばかりを思い出してしまう。

昨日の出来事だ。

バスケットボールをお腹に受けて嘔吐した事。そのボールを投げたのが隣の絵梨那だ。そして、朝の残酷な言葉。それらがグルグルと綾佳の頭の中を巡る。

「藤崎さん、いえ綾佳と呼んでもいいかしら?」

不意に、絵梨那が話しかけて来た。

「は、はい……構いません」

「先ほどから食事が進んでいないみたいだけど?」

「えっ……そんな事無いです」

正直、食欲は無かった。しかし、無理矢理口へとお弁当を運んでいく。

「そう……ねえ、わたくしあまり食欲が無いの。よろしかったら、わたくしの分もいかがかしら?」

出来ることなら拒否した。だが、もし従わなかったどうなるのだろう?

怖い。何を考えているのか分からない真理原絵梨那が怖い。

「もらいます……」

「じゃあ、後は全部貴女にあげるわ」

綾佳は見た目からも想像出来る通り小食だ。いつも自分のお弁当でいっぱいいっぱいの綾佳の手に、綾佳のお弁当の倍はありそうなお弁当が渡される。

「あ、あの……」

「いいのよ、遠慮しなくても」

そう言われてはもう言い返せない。

「……いただきます」

黙々と絵梨那のお弁当へを口へ運んでいく。

だが、トータルいつもの三倍の量を食べれるわけも無い。お弁当が半分程になると綾佳の箸が動かなくなる。

お腹はパンパンになり苦しい。これ以上食べたら……昨日みたいに吐いてしまう?

『嘔吐』を意識した途端、急に気分が悪化し始めた。額には脂汗が浮かび、口で小さく呼吸を繰り返す。

「あの……これ以上は」

そう言いながら絵梨那へと顔を向けると、絵梨那は何かを期待するような表情を見せていた。

その表情が急に険しくなる。

「わたくしのお弁当が食べれないと仰るの? わかりましたわ、下田あれを」

「はい、絵梨那様」

うやうやしく、夕子は500mlの牛乳のパックを絵梨那に手渡す。

「これで、流し込むといいわ」

だが、決して好きとは言えない牛乳に思わず込み上げそうになり口許を押さえる。

けど、どうしてそこまでするの? 綾佳には理由が分からない。

「さあ」

少し震える手で、牛乳のパックを受け取る。その重さに、背筋に冷たいものが走る。

ダメ、これ以上は絶対に入らない。

「お飲みなさい」

じっと牛乳のパックを見つめて硬直する。

「さあ、どうしたの」

ごくり、唾を飲み込む。

飲んだら、飲んだら絶対に吐いてしまう。昨日の今日でそれは絶対に避けたい。ましてや、ここには他の生徒もいる。

「ご、ごめんなさい!!」

綾佳は牛乳のパックをベンチに置くと、自分のお弁当を持って全力でその場を後にした。

その後姿を絵梨那は憎々しげに見つめていた。

五時間目の授業。

社会科の教師がまるで異国の呪文のように遺跡の名前を次々と読み上げている。

先ほどはなんとか絵梨那の下から逃れた綾佳だが、たっぷりと食べた昼食によって強い吐き気を覚えて、苦しげな表情を浮かべながら授業を受けている。

そして、綾佳の丁度斜め後ろの席に座る絵梨那は、授業が始まってからずっと綾佳の方へと視線を送っていた。

「えー、それでは、藤崎さん。今私が読み上げた遺跡の中で、一番古い遺跡はどこかしら?」

吐き気に耐える事に全神経を集中させていた綾佳は、教師の突然の指名に驚き、顔を上げる。

「あっ……」

ゆっくりと立ち上がるが、強い吐き気に言葉が上手く出て来ない。

「どうしました? ……ちょっと、顔色が悪いようだけど、大丈夫?」

そこで、教師も綾佳の様子に気がついた。

「その、気分が……優れなくて……」

「そうね、保健室に行った方がいいわ……えーっと、誰か付き添い」

「先生、わたくしが藤崎さんの付き添いをします」

教室に、絵梨那の綺麗な声が響き渡る。

感心したような表情の教師、不思議そうな表情のクラスメイト、そして綾佳は恐怖に顔を引きつらせている。

「それじゃあ、真理原さんに頼もうかしら」

「ええ、お任せ下さい」

一瞬、綾佳に向けて笑みを送る絵梨那。

「あっ、あの……」

「どうしました?」

つい、言葉が出てしまった。だが、その後が続かない。

別に人にして下さい、等と言えずに押し黙ってしまう。

「じゃあ、真理原さん、後はよろしくね」

「ええ……藤崎さん、大丈夫ですか? さあ、保健室に参りましょう」

綾佳の席までやってくると、絵梨那は優しく話しかける。そして、恐怖に立ち竦んでいる綾佳の手を引っ張るようにして、二人は教室から出て行った。

真っ直ぐと前を見据え、ずんずんと歩いて行く絵梨那。手を引かれ身長差もあって小走りになる綾佳のお腹に、一歩ごとの振動が伝わり、その度に吐き気が強くなる。

ついに耐え切れなくなった綾佳は、足を止めて苦しそうな表情を浮べる。

ふいに、強い力で引っ張られて絵梨那も足を止め、後ろを振り返る。

「はぁ……はぁ……」

苦しそうにしながら、絵梨那を見上げる綾佳。

「ねえ。どうしてあの時、逃げたのかしら?」

あの時? それはお昼の出来事だろうか……。

「わたくしの好意が受けられない、そう言う事かしら?」

「そ、そんなつもりは……ただ」

絵梨那の強い視線から逃れるように下を向いてしまう。

「ただ?」

「あれ以上は食べれないって思ったから……だから」

「そう……あそこで牛乳を飲んだら、昨日みたいに無様にゲロを撒き散らすから、という事ね?」

言い方が酷いような気がしたけれど、理解をしてくれた。嬉しそうに再び顔を上げる綾佳の目に、絵梨那の残酷そうな微笑が飛び込んできた。

「あ……あの」

何だろう。一体、どういう事なんだろう。

「わたくしは、あそこで貴女にゲロを吐かせてあげようと思っていたのに」

「えっ!?」

私にゲロを吐かせる?

「ど、どうして!! ……きゃっ」

綾佳の両肩を掴み、廊下の窓際に押し付ける。

「本当、鈍い方ね。理由は単純、貴女の事が大っ嫌いだからですわ」

「えっ……」

ショックに後の言葉が続かない。

生まれてこの方、ここまではっきりと「嫌い」と言われた事など無かった。

一体何をしたのだろう?

「あの、どうして……どうして、私の事を……」

「わたくし、人生でこれまで負けた事なんて無かったの。それを、外からやって来た貴女なんかに……」

「痛い……」

綾佳の肩に置かれた絵梨那の手が、力を増してギリギリと綾佳の肩に指が食い込み、綾佳は悲鳴を上げる。

「ご……ごめんなさい……私、そんなつもりは……」

弱々しく呟く。

「今更、謝られても、そんなもの意味ありませんわ」

「それじゃ……どうすれば」

「そうね。今日のところは、今ここでゲロをぶち撒けてくれたら許して差し上げてよ」

「そ、そんな……あぐっ」

「わたくし、親切な人間だから、手伝って上げますわ」

絵梨那の手が肩を離れて、綾佳のお腹へと伸び、お腹を力強く握り締める。

綾佳は苦しそうに、その手から逃れるように身をくねらせる。だが、体格差もあって全く逃れる事が出来ない。

絵梨那の手がお腹の上を這うたびに、胃の内容物が逆流しそうになる。

「い……いやぁ、うぶっ」

綾佳の小さな悲鳴は、込み上げて来た吐瀉物に飲み込まれて消える。

「おっ……おえぇぇ!! げぇぇ!!」

ゴボゴボと不気味な音が鳴り、綾佳の口から昼休みに食べたモノが噴水のように噴き出した。

ビシャビシャと音をたてて、綾佳の足元から廊下の真ん中近くまで、グロテスクで粘り気の強いゲロが川を作る。

そのほとんどが未消化のままの昼食である。

「はぁはぁ……うぅ、いやぁ、やめ……おぶっ、えっ、げぇぇ!!」

最初の嘔吐の後、少しの間苦しそうに息をしていた綾佳のお腹に再び絵梨那の手が伸び、お腹を強く押す。

綾佳は再び、激しい嘔吐に見舞われた。

今度は先程よりも飛距離は無かったが、先程よりも量は多かった。ビチャビチャと足元に大きなゲロ溜まりが出来る。

最初の嘔吐、そして二度目の嘔吐によって、まるで湖とそこへ流れ込む川のような形を作っている。

「せっかく昨日のゲロ臭さは取れたのに、また臭くなってしまいましたわね。嗚呼、嫌だわ、なんて臭いのかしら」

耳元で絵梨那が囁く。

「うっ……うう」

その言葉に、綾佳の目から涙がポロポロと零れ落ちる。

「ふふふ、今日のところはこれ位で許して差し上げますわ」

満足そうな笑みを浮べる絵梨那。

「それじゃあ、保健室へと参りましょう」

絵梨那に手を引かれ、綾佳は保健室へとゆっくりと歩き始めた。

だが、綾佳の中の吐き気はまだ治まった訳ではなかった。むしろ、二度の嘔吐によって口の中に残った吐瀉物の気持ち悪さによって更に高まっていた。

「さあ、保健室ですわ。失礼します」

絵梨那がコンコンと二度ドアをノックして、ドアを開く。

ドアの向こう、保健教諭がイスを反転させてこちらを振り向く。

靴を脱いで中へと入ろうとした絵梨那は、先ほどから靴を脱がずに立ち尽くしている綾佳に不審そうな表情を見せる。

「藤崎さん?」

先ほどまでとは全く別人とも思える優しそうな声。

「はぁはぁ……」

綾佳は絵梨那の呼びかけにも答えず、苦しそうな呼吸を繰り返す。

さすがに絵梨那もその様子に、まだ吐き気が治まっていない事に気が付いた。

「大丈夫?」

完全に良い子モードになっている絵梨那はそっと綾佳へと手を伸ばす。

「ぐっ!!」

その時、綾佳の表情が更に険しくなり、慌てて両手を口許へとあてがう。

「えっ……?」

絵梨那の顔に生暖かい液体の感触が広がる。綾佳の吐瀉物が、手にあたり跳ね返り、飛び散ったのだ。

「きゃっ!!」

絵梨那が悲鳴を上げる。

「ちょっと、大丈夫!!」

保健教諭が慌てて二人の下へとやって来る。

「げぇ、おえぇっ、うげっ、はぁはぁ……おえええぇぇぇぇ!!」

苦しそうに肩を激しく上下させながら、綾佳は何度も嘔吐を繰り返す。その度に、ビチャ、ビチャ、と粘着質の音を発して吐瀉物が床に広がっていく。

その横では保健教諭が綾佳の背中をさすっている。

絵梨那はその姿を、怒りと興奮に包まれながら見つめ続けていた。

傾いた夕陽が窓から部屋に差し込んみ、室内を鮮やかな朱に染めている。

昨日と同じように自室のベッドに仰向けになっている絵梨那の表情は、昨日とは全く違うものとなっている。

怒り。まさか、吐瀉物がかけられるとは予想外であった。結果、絵梨那の制服に小さな染みを作り、制服はもう使い物にならなくなってしまった。

興奮。綾佳の嘔吐する姿に興奮している自分を発見、いや確認した。

もっと綾佳の嘔吐姿を見たい。もっともっと……。

ベッドの上で、絵梨那は至福の表情を浮かべていた。