『白と黒の分岐点』

[黒]

今思うと、予兆はその少し前ぐらいからあったのかもしれない。

毎日夜遅くまでの受験勉強で寝不足も酷く、受験へのプレッシャーも思っていた以上に感じていたのかもしれない。

何日前とははっきり言えないけれど、試験日の前日よりも前からあまり食欲も無く、ムカムカした感じもあったように思う。

それでも、入試が終わればプレッシャーからも介抱されてぐっすり眠って、体調も良くなるだろうし、もう少しの辛抱と我慢していた。

それがいけなかったのかもしれない。

試験前夜。

夕食のテーブルに並んだ豪勢な料理。明日に備えてしっかりと食べて体力をつけるため、とママは説明した。その気持は凄く嬉しかったけれど、テーブルの上に並んだ料理を見るだけで込み上げてきそうだった。

それでも私は無理をして食べた。明日のために、という思いもあったし、あまり手をつけないとママも心配する。吐き気を堪えて、私はいつもより少しペースを落として、食べる。

だが、それが失敗だった。飲み物で無理やり流し込んだお腹は、手で触ってみても少し膨らんでいるのが分かる。そしてそこには、嫌な感じが生じていた。

ごちそうさま。

苦しい中で、それだけ言って立ち上がる。

それだけで胃の中身が喉元近くまで上がってきた。

じっとりと嫌な汗をかきながら、吐き気を堪えて私は部屋に戻る。

この日まで、しっかりと受験勉強はしてきたのだから、少しぐらい休めば良かったのかもしれない。それでもやっぱり、調子は悪くても少しでも勉強しないと気持ちが落ち着かない。

吐き気を我慢しながら、いつもと同じように勉強机にノートを広げて受験勉強を始めた。

しかし吐き気は治まるどころかますます強くなり、とても勉強に集中出来る状態ではなくなってきた。

どうしたらいい? トイレに行くべき?

そう思い、ついに決心する。

けれどもう手遅れだった。

突然、ごぼり、と喉の奥から音が聞こえたような気がした。

熱いものが一気に込み上げてくる。

なんとか、堪えようとするが無理だった。

少し前に食べた夕食の味が、幾重にも絡まり口の中を満たす。

「んっ……ぐ、えええっ、おえっ!」

とっさに受け止めようしてか、手を出してしまった。

そこに勢い良く噴出した胃の内容物が、ビシャアアアと容赦なく降り注ぎ、飛び散った。

呆然とする私。けれど、それで終わりではなかった。

手に残る異様な暖かさと、部屋中に広がる強烈な臭いに、更に強い吐き気が襲いかかる。

「ぇ……、うぇ、ごほっっ、げええぇぇっ!!」

ゴボゴボと音を立てて、更に大量に嘔吐した。ごちゃ混ぜになった夕食が、ビチャビチャと汚らしい音と共に、机の上に広げたノートを覆い尽くす。

「はぁ……はぁ……」

苦しくて目には涙が浮かぶ。もう嫌。これ以上吐きたくない。そう思っても、身体は勝手に反応する。

「う……ぐ、えっ、おええっ」

再び大量に戻すと、今度はその日学校の給食で食べたものが、机の上に広がった夕食の上に、ビチャビチャと降り注ぐ。

「えっ……おえっ……」

それでも嘔吐は止まらない。もう吐くものは無いように思えたが、次々と込み上げてくる。

「はぁ……はぁ……うぇ、げぇ……はぁ……えっ」

少しずつ、少しずつ、机の上の嘔吐物のドロドロとした山は裾野を広くして、ついには机から溢れて落ちる。

ビチャ……ボタ……グチャ……、と両足の、太ももの上にそれは降り注ぎ、そのドロドロとした感触に背筋が寒くなった。

その頃になって、ママが異変に気付いて部屋に入ってきた。

多分、部屋に充満する臭いに凄く驚いたに違いない。

それでも怯むことなく、私の傍へ来ると私が落ち着くまで優しく背中をさすってくれた。

しばらくして落ち着くと、タオルで吐いたものを軽く拭き取り、お風呂場へ。まだ、少しムカムカしつつ、シャワーを浴びると、また込み上げてきて風呂場で吐いてしまった。

何度かゲェゲェとやって、吐き気が弱くなってきたところで、やっと風呂場を出て部屋へと戻った。

部屋を出るときには机の上に広がっていた嘔吐物もすっかり姿を消し、綺麗になっていた。換気も済ませ、臭いもほとんどしない。

もう勉強する気分にもなれず、布団に入る。

けれど気持ち悪くて眠れない。ベッドサイドには念のためとママの用意したの洗面器。しばらく気持ち悪くて、寝返りを何度も打っていると、込み上げて来て慌てて起き上がって洗面器に戻す。

ほんの少し胃液が出るだけ。それでも、うつらうつらとしていると、ふいに込み上げて起きて洗面器に向かってゲェゲェとして、またうつらうつら。そんなことを何度繰り返したか分からないが、気がつくと朝だった。

けれど吐き気は治まらない。



[白]

朝から降り続く雪に、交通が乱れて時間に遅れることをひどくお母様が心配して、かなり早い時間に家を出ることになり、辺り一面銀世界の中、心配するお母様とそれをなだめる、いつもは父の車の運転手を努める八木沢さんの延々と繰り返すやりとりに苦笑しつつ、じっと外の幻想的な景色を見つめていると、道路の先にこれから入試を受ける中学校の姿がぼんやりと浮かび上がってきました。

車を降りて、私はお母様と一緒に正面玄関の受付に向かいました。

そこで受験票を提示して本人確認を済ませ、受験を受ける教室と座席の書かれた用紙を受け取ります。

そしてここから先は、受験生だけ。特別な理由でもない限り、受験生の関係者が校内に入ることは許されません。

まだ心配そうなお母様に、私は笑顔で「大丈夫です」と言って、校舎の中に入りました。

家を出るのが少し早すぎたのかもしれません。静かでひんやりとした空気の校舎内は、人気が全くありませんでした。

すぐに教室に行って、残り時間でギリギリまでテスト勉強する。それが一番正しい道なのでしょう。けれど私は、もう十分にしっかりと勉強をやって、おかしな話ですが絶対に合格すると確信をしていました。だからでしょうか。ふと、頭に浮かんだのは学校見学で見た、新しい学校には不似合いな古い礼拝堂のことでした。学校が出来る前からあったというその礼拝堂は、文化財指定も受けているほど貴重なものらしいです。

もっとも、そういった理由とは関係なく、初めて見た時にとても可愛らしく思え、すぐに気に入ってしまいました。学校を選んだ要因の、ひとつかもしれません。

そして、この雪の中でどんな姿を見せているのかと思うと、気になって仕方がありませんでした。

校内の地図はもう既に頭の中にありましたから、迷わず私は礼拝堂へと向かいました。

校舎を突き当たり、そこの出入り口から辺りに人がいないことを確認してそっと外に出ます。足跡の全く無い新雪の上を、一歩一歩踏みしめて進みます。

誰もここに来ていない。それが嬉しかったのです。

すぐに礼拝堂は見えてきました。

少し開けた場所。周りは、比較的背の低い木々が取り囲んでいます。その中央に、ちらほらと降る雪をかぶって雪化粧した礼拝堂の姿。私はキリスト教徒ではありませんが、何かしら厳粛な気持ちになって祈りたくなりました。

ただ、ちょっと寒すぎます。あまり長居していると風邪でもひいてしまいそうです。

礼拝堂を後にした私は、再び頭の中で校内図を広げて教室へのルートを考えます。来た道をまっすぐ戻るのではなく、別の出入り口から校舎に入って廊下を歩いていると、突然「音」が聞こえました。

今のは何でしょう?

そう思いながら、さらに廊下をまっすぐ進んでいると、再びその「音」が聞こえました。

ドクン。いきなり、鼓動が早くなりました。

それは、人が、それも女性ーーおそらくは、私と同じ受験生の女の子でしょうーーの吐いている声です。間違いありません。

でも、おかしいです。

これまでにも、たとえば小学校でクラスメイトの子が嘔吐した場面に遭遇したことがありましたが、そのときはこんな感じしませんでした。

そう。これは「興奮」です。

でも、どうして?

わかりません。

それでも、私の足は音のするほうを目指してまっすぐに進みます。

一歩ごとに興奮は高まり、鼓動はもう100メートルを全力疾走した後のように早くなっていました。

保健室。そこが目的地でした。

ちょうど、廊下側の窓が少し開いていました。私はそこから、そっと中の様子を伺いました。すると、まさに目の前にベッドに腰掛けた女の子が、両手で洗面器を抱えていました。

私が、まだ小学生に間違えられるぐらいに小さくて幼い顔立ちだとすれば、その子は正反対です。座っていても、背が高いのは分かります。苦しげに歪められた顔は、それでも凄く綺麗なことが一目瞭然でした。なんということでしょう。

私はその時、恋に落ちたのです。

目の前で、苦しそうな表情で嘔吐する少女にです。それまでの人生で、友達とそういった話をするたびに私は少し困りました。一度も、恋というものをしたことがなかったのですから。

でも、いつか恋するだろうと思っていました。それが、まさか中学入試の当日に、同じ受験生の女の子になるとは思いもしませんでした。

私は、じっと見つめます。もちろん、向こうは気付きません。気付いたら、困ります。どう、反応してよいか思いつきません。

彼女は、とても苦しそうに、大きな声で何度も嘔吐します。けれど、もう何も吐くものがないのでしょうか、口からはほとんど何も出てきません。

それが少し残念でした。もっと沢山、吐くところを見たい、と思いました。誰かの吐いている姿で、興奮するなんておかしなことです。でも、私はそれに目覚めてしまったのです。

いつまでも見ていた。背中をさすってあげたい。そんな思いが心の中をグルグルと巡ります。けれど至福の時は、突然の言葉で切り盛れました。

「あなた、何してるの?」

びっくりしました。別の意味で心臓がドキドキします。それでも私は、顔色ひとつ変えずに声の方を見ます。

「あの……」

「受験生?」

「はい」

「道に迷ったのかしら?」

白衣の女性はおそらく養護教諭の先生でしょう。

私は、相手の言葉にあわせます。

「そうです。それで、保健室に気付いて誰かいらっしゃらないのかと……」

「そうだったの。えっと、あなたのテストを受ける教室は?」

私は受付の紙に書かれた番号を口にします。

「ああ、そこなら、この廊下をまっすぐ進んだ先にある階段を上がって、左に行った二番目の教室よ」

「ありがとうございます」

「もうすぐテストが始まるから, 急いだ方がいいわ」

「えっ! はい。失礼します」

至福の時、というのは時間の流れがとても早いみたいです。もうそんな時間になっていたとは驚きです。

私は急ぎ足で教室へと向かいます。それでも心の中は、先ほどのことでいっぱいです。

彼女が同じ受験生である以上、試験に受かればクラスメイトとなって親しくする可能性もあります。けれど、彼女の体調を考えるとかなり難しそうです。もし、私があんな状態だったらと想像してみると、無理です。ここにやってくるのも、絶対無理です。

そして、そんな私の予想通り、中学校の入学式で彼女の姿はありませんでした。