「綺麗に青空が広がりました、京都市の上空です。全国四十七都道府県のふるさとを代表するチームの選手たちが今年もここ師走の都大路に集まりました。この後、女子のレースからお伝えしていきます。スタートは10時20分。女子のスタート時間が近づいてきました。一区のランナーたちが準備を始めています。午前中の女子のレースは相沢万里江さんと共にお伝えしていきます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「さて、さっそくですが今年は綺麗な青空が広がり、風も無風状態。気温12度、湿度58%とコンディションは非常に良さそうですね」
「最高のコンディションと言っても良いような気がします」
「ということは、最高のレースが期待できそうですね」
「ええ、是非とも記録に挑戦していって欲しいですね」
「そうですね。さて、今年の注目と言えば連覇を目指す、今年もチームの3000M平均タイムトップの優勝候補、兵庫の須磨学園ですが」
「はい。やはりこのチームが総合力では一番だと思います。序盤で抜け出せば独走もありえると思います」
「それを阻止する有力校となりますと、長崎の諫早高校。それに地元京都の立命館宇治あたりでしょうか」
「そう思います。3000M平均タイムでは須磨学園に次ぐ諫早は須磨学園と互角に渡り合えるだけの力は十分にあると思います。それに立命館宇治も今年は力のある選手が揃いましたから、十分に優勝を狙えると思います」
「そこでまず重要になるのが、何と言っても一区。ここでの順位が後々の結果に大きな影響を与えます」
「その通りだと思います。過去にも優勝候補と呼ばれながら一区で躓き優勝出来なかったチームは沢山あります。ですからどのチームもまずこの一区に力のある選手を立てて来ます」
「逆に言えば前評判の高くないチームであっても一区の出来次第で上位も窺える、ということでしょうか?」
「変にプレッシャーが掛かっていなくてあれよと言う間に優勝、というケースも可能性としては十分に考えられます」
「はい。では、その一区のランナーの有力選手を紹介していきましょう。まず、なんと言っても連覇を目指す須磨学園。チームでも二番目のタイムを持つ本山」
「本山選手は国体でも上位に入った実力者です。一区のランナーの中でのタイムでも三番目と非常に力のある選手です。普段通りの力を出せれば上位は確実に見えてきます」
「そして、須磨学園の対抗馬として有力な諫早は増村」
「国体は怪我で欠場だった選手ですが上背があり、非常に大きなストライドで走る大型ランナーです」
「そして、地元京都の立命館宇治からは弓塚選手」
「弓塚選手も国体で上位に名を連ねる実力者です。地元の声援をバックに快走を期待します」
「では、それ以外の有力選手を見ていきましょう。まず、なんと言っても3000M走トップタイムの仙台育英のケニア人留学生カリウキ。そして、同じくケニアからの留学生、青森山田のワウエル。日本人選手では、日本人トップタイムの持ち主。北条館の古谷選手。一年生ながら地方大会一区で区間新を出した成城の一年生エース早瀬選手」
「そうですね。まず、カリウキ選手ですが、トレーニングも上手く行って好調だと聴いています」
「それは楽しみですね」
「一方、ワウエル選手は少し足首に痛みがあるということです。監督さんは、痛みは多少あってもワウエルなら大丈夫と言ってました」
「カリウキ選手に対して対抗心剥き出しとか」
「はい。国体では負けたけど、今回は区間新で勝つと言ってました」
「勇ましいですね」
「北条館の古屋選手もカリウキ選手には対抗心を燃やしていました。絶対にカリウキには勝つ」
「日本人としての意地をみせて欲しいですね」
「少し心配なのが成城の早瀬選手です」
「京都に来てから風邪を引いて、練習もほとんど出来なかったみたいですね」
「はい。ただチームとしても最重要選手ですし、本人も強く望んでの出場となりました。まだ一年生ですからあまり無理はしないで欲しいと思います」
「間も無くスタート時間です。選手の皆さんはスタート位置に移動して下さい」
トラック脇の選手集合場所でチーム毎に柔軟をしたりチームメイトと談笑したり、あるいは一人レースに向けて集中していた、一区の選手たちが防寒コートを脱ぎ次々とトラック内へと足を踏み入れる。
多くの選手の表情には緊張の色が窺えるが、中にはリラックスした様子の選手もいる。
「さあ、時間よ。飛鳥、準備はオッケー?」
成城のメンバーが集まる場所、補欠選手の一人で三年生の春日井弓子がゆっくりとストレッチをしている早瀬飛鳥に声をかける。飛鳥は弓子の方を振り向き「はい」と返す。その声の張りの無さに弓子は少し不安を抱きつつ、元気付けるように更に言葉を続ける。
「飛鳥は早いんだから、大丈夫よ」
弓子のそんな気遣いに気付いたのか、飛鳥は先程よりも幾分声を張り上げて再び「はい」と返した。
だが、弓子の不安は的中していた。今朝、出場を決めた飛鳥は京都に来てから風邪を引いて満足な練習も出来ていない。それに実のところ今日も熱があったのだ。緊張と体調不良の二重苦が飛鳥の身体に重く圧し掛かる。
けれど、今更欠場しますなんて口が裂けても言えないし、もちろん言うわけが無い。女子高校生の長距離ランナーにとって、一年に一度、チームメイト全員が力を合わせてタスキを繋ぎ、チーム一丸となってゴールを目指す全国高校女子駅伝は特別な舞台なのだ。それはもちろん飛鳥にとっても憧れの場所。その一番最初のランナーという栄誉を授かったのだから、多少の体調不良ごときに負けてはいられないのだ。
それに、飛鳥は自分がチームを引っ張ってきたという強い自負があった。自分がエースなのだ。だから、自分が抜けるわけにはいかないし、自分がまずしっかりとしたレースでチームに勢いを与えなければならないのだ。
「ふぅ……」
防寒コートをゆっくりと脱ぐと、冬の冷気が身体を包む。平年より暖かいとされる今日の気候だが、やはり寒さを感じるのは体調不良の所為だろうか。などと考えてしまう。
弓子に防寒コートを手渡し、もう一度軽めのストレッチをする。
「大丈夫よ。平常心で走れば結果はついてくるわ」
弓子はそう言ってにこやかに笑顔を見せる。その綺麗な笑顔に釣られ飛鳥の表情も幾分柔らかくなった。
「それじゃあ、行ってきます」
飛鳥は声援を送るチームメイトに背を向けてトラックへと足を踏み入れた。
「本当に大丈夫かしら……」
飛鳥の背中を見つめながら弓子は一人小さく呟いた。
一歩一歩とスタート位置に近づくに連れ、緊張は高まっていく。緊張の所為だろうか、それとも体調不良の所為だろうか、飛鳥は少し気分が悪くなったように感じた。けれどもう後に引けない。
大丈夫。ちょっと緊張してるだけよ。走ればいつも通りに走れるから。
心の中で自分を勇気付けるように言葉を紡ぐ。
既にほとんどの選手がそれぞれ抽選で決定された場所に立っている。飛鳥も成城のスタート位置、二列目の大外から三人目の場所に移動する。
緊張に身を硬くしつつぐるりと周りを見渡せば多くの選手が緊張に強張った表情で、寒さと緊張から硬くなった身体をほぐそうと狭いスペースで盛んに身体を動かしている。飛鳥もそれに見習いゆっくりと身体の緊張をほぐす動きを繰り返す。
刻一刻とスタート時間は近づいてくる。
周囲の大会スタッフの動きも慌しくなってくる。
ピストルを手に持った、京都府知事らしいが飛鳥にとってはどうでもいいおじさんが、ゆっくりとした足取りでスタート位置の傍へと歩いてくる。
そろそろ時間だ。
飛鳥はそっと右手を自分の胸に当て目を閉じて、小さく言葉を繰り返す。
大丈夫。絶対に大丈夫。
平常心。平常心。
いつも通りの走りをすればいいだけ。
目を開く。小さく息を吐く。すっとスタートのポーズを取る。
「位置について──」
乾いた音が競技場に響き渡った。
「さあ、レースが始まりました。まずは有力選手の一人、仙台育英のカリウキが丁度一列目の内側からスタート同時に先頭に立ちました」
「最初にこの位置を取れたのは大きいですね。カリウキ選手の動き次第では高速レースになるかもしれません」
「逆に須磨の本山は一番後ろの列、それも内側スタートで完全に集団の中に消えてしまっています」
「少し走りづらそうにしていますね。速い選手にとっては窮屈に感じるのでしょう」
「さっそくカリウキがペースを上げて引き離しにかかります。しかし、古谷がしっかりと後ろについています」
「さっそく面白い戦いになって来ました。ワウエル選手は様子を見ているのかそれほど追いかけようという動きはありませんね。このあたりはもしかすると監督の指示があったのかもしれません」
「このまま二人が先頭でコースに出て行きそうです」
「諫早の増村選手が頭一つ第二集団から抜け出しましたね」
「相沢さん期待の早瀬選手は丁度真ん中あたりでしょうか」
「やはり風邪の影響なのか、いまひとついつもの走りに比べてキレが見られませんね」
「さあ、やはりカリウキと古谷が先頭で今コースに出て行きます」
思った以上に身体が重い。飛鳥は走ってすぐにそう感じた。いつもの自分の走りからすると全くキレがないし、足が上がらない。
丁度真ん中あたりの集団に完全に埋没している状態だ。
悔しく思いながらそれでも飛鳥は少しペースを上げる。
だが、この時、微かな違和感が芽生えた。吐き気。丁度、胃から胸元にかけてのムカムカ感。それに喉がやけに渇くような感じ。
僅かに眉間に皺を寄せ、それでも飛鳥は地面を蹴る。一人でも抜いて、一歩でも前に、一秒でも早くタスキを渡すために。
だが、足が地面につく度に、地面から受ける衝撃とは別の、熱く気持ちの悪い塊が胃を駆け上がるような感じがして走りに集中出来ない。
あれっ……。
ふと、気付くとすぐ横に後ろから上がって来たと思しき選手がいる。そして、そのままあっという間に追い抜かれている。相手が速いのではない。飛鳥の速度が落ちているのだ。
気持ちは必死に前を目指すが、限界に近づく身体が自然とブレーキを掛けているのだ。だが、飛鳥にはそんな事はわからない。更に速度を上げようとするほどに、身体は悲鳴を上げていく。
「えっ……?」
な、何?
突然、喉元まで熱い物体が込み上がって来た。
飛鳥は表情をゆがめつつ、なんとかそれを飲み込もうとする。だが、身体は空気を欲し、飛鳥の飲み込もうとする意思を身体が拒みなかなか思うように飲み込めない。
必至に飲み込もうとする飛鳥。
そこへ追い討ちをかけるように第二波が襲い掛かる。
「うっ……」
あまりの苦しさに足が止まる。後続グループが脇をすり抜け一気に差は開いていく。だが、動けない。動いた瞬間、胃の中のものが全て出てしまう。
これまで感じた事の無い恐怖感が全身を包む。
走らなければ。でも、走れない。走ったら……。
「ぐっ……」
ついに走ることが出来なくなった飛鳥は、両膝に手をついて前かがみになると、大きく口を開いた。
「おええぇぇ! げぇ……ええぇ、げほっ、ごぼっ……はぁはぁ」
それまで必死に耐えていた飛鳥の口から、胃の内容物がビチャビチャとアスファルトに落ち、飛び跳ねた一部は飛鳥の靴に付着した。
「はぁ……はぁ……」
練習では何度か体験した嘔吐。だが、練習では一度吐けばラクになったのに、一向に吐き気は治まらない。それどころか再び吐き気が強くなる。
「えぇ、げっ……」
今度はピチャピチャと少量の吐瀉物を戻した。
あまりの苦しさに瞳に涙が浮かんでくる。
走らなくちゃ。そう思うが少しでも身体を動かそうものなら吐き気が込み上げて、一歩も進むことが出来ない。
「うぇ……げえぇぇ!」
再び、胃が激しく収縮して胃の内容物が押し出される。一回目より若干粘度の高そうな吐瀉物が、口からダラリと垂れ下がりゆっくりと糸を引くようにしてアスファルトに軟着陸した。
「……はぁはぁ」
少し気分がラクになった。
飛鳥はゆっくりと走り出す。嘔吐で体力を奪われ、弱い吐き気に苛まれた飛鳥の走りは更に遅くなっていた。それは『走る』というよりも『歩く』という表現が近い。それでも必死に足を一歩一歩進める。何度も途中で立ち止まり、吐き気にうずくまり胃液を戻しながらもゆっくりと飛鳥は進む。
沿道の応援はそんな飛鳥を励まそうとどんどん大きくなる。
だが、飛鳥の耳には全く入っていない。飛鳥はただ、本能のまま、次のランナーにタスキを渡すために前進し続けていた。
そして、飛鳥は辿り着く。一区最下位となった飛鳥は二区の三年生にしてキャプテンの麻生久美に倒れるようにしてタスキを渡した。「ごめんなさい」という言葉と共に。