吉澤信人がその女性と出会ったのは高校生となった今年の春のことだった。
中学のクラスメイトの多くと同じ地元の公立高校へと入学した信人は、同じクラスになった別の中学校出身の遠山健一郎と親しくなった。それからしばらくして、健一郎に「家に遊びに来ないか?」と誘われて、学校の帰りに健一郎の家にお邪魔した。
都市部のマンションに住んでいる信人の環境とは反対の、山に近い閑静な住宅街の奥に健一郎の住む家は建っていた。築数十年と思われる瓦屋根の日本らしい家だ。
そんな家をちょっぴり羨ましく思いつつ中に入ったところで、その女性と出会った。
「ちょっとそこで待ってて」と健一郎に言われ、玄関を上がったところでグルグルと周りを見回していると、不意に視界の隅に人影が入り込んだ。丁度、玄関から奥まで一直線に延びる廊下の向こうから、一人の女性がこちらに向かって歩いて来た。
その瞬間、信人はあっという間に心を奪われた。
こちらに気付いたその女性は少し驚いたような表情を見せる。
信人が軽く頭を下げると、向こうも同じように頭を下げる。
「何やってんだ?」
その直後、健一郎が廊下沿いの部屋から姿を現して不思議そうに信人の方を見ていた。
「廊下の向こうに……」
と、信人が言うと健一郎が後ろを振り返る。だが、既にそこには人影は無かった。
「あれ?」
今のは目の錯覚だろうか? と信人が思っていると、健一郎が「それ多分、姉貴」と簡潔に答えた。
これが健一郎の姉、遠山由希子との出会いであった。
それからも、しょっちゅう学校帰りに健一郎の家にお邪魔するようになった信人だったが、由希子と遭遇する機会はあまりなかった。というのも、健一郎の部屋が表側二階にあるのに対して由希子の部屋は一階奥という、少し離れた場所に加えて、受験生でもある由希子は家に居てもほとんど自室に篭もって勉強しているらしく、あまり部屋から出てくることはない。もちろん、信人も健一郎の部屋にいる時間がほとんどだ。
それでも、時々は出会うこともあって一応は名前を覚えてもらえた頃。健一郎から、両親不在の土日に泊まりに来ないか? との誘いがあった。
もちろん、すぐに泊まりに行く旨を伝える。すると健一郎から由希子が夕食を作るので夕食の心配はしなくていい、と一言付け加えられた。由希子の手料理──その言葉は強烈な魔力を持って信人を惹きつける。その瞬間、信人は思わずガッツポーズのひとつもしたくなったが、さすがにそこは自制した。それでも、その日の信人が明らかに浮かれた様子なのは健一郎を始め、信人の知り合いの多くには一目瞭然であった。
その日から数日。ついに運命の土曜がやってきたのだが──。
土曜の夜、食卓の上に並んだのは由希子の手料理ではなく、出前で頼んだ定食だった。健一郎の家の近所の店で、美味しいと評判の定食屋の料理は確かに美味しい。それは信人も認めるところではあったが。
「由希子さんの手料理……」
ご飯の入ったお椀と箸を手に持った信人は、そう呟くとがっくりとうなだれた。
「まだ言ってるのか? 姉貴は──」
「分かってる……けど」
本来なら今夜の食事を作るはずだった、健一郎の姉・由希子は朝から具合が悪くて寝込んでいる。そんなことは、この家に昼過ぎに来た時に健一郎から伝えられているから百も承知だ。もちろん、病人に料理を作らせる、なんて無茶なことだとも理解しているし、料理をしたいと言っても止めていただろう。それでも、それでも、やっぱり由希子の手料理を食べたかった。
「また今度、今回の埋め合わせを理由に姉貴に料理作らせるから、いい加減に今日は諦めろって」
とは言ったものの、こんなどよーんとした状態の信人と一晩過ごすのは疲れそうだな、と健一郎は思う。何か良い手立ては無いだろうか、と考えると、信人の機嫌が良くなりそうな妙案を思いついた。
──姉貴、許せ。
そう心の中で謝罪し、健一郎は口を開いた。
「なぁ……」
「ん。なんだ?」
丁度、口を大きく開き、箸で掴んだご飯の固まりを口へと運ぼうとしていた信人が、その手を止めて健一郎に視線を向ける。
「メシ食ったら、姉貴の部屋まで夕食持って行ってくれないか?」
ぽろり、と箸で挟んだご飯の固まりが食卓の上に落ちる。信人は目を見張って、硬直していた。
「い、いや、でも、それは……」
混乱しつつも、さすがにそれは、と信人は思う。だが一方で、そのことにとても惹かれている気持ちも否定できないでいた。
「まあ、本当は良くないんだろうけど……んー、でも全く知らないわけじゃないし、ほっとくと冷めるし、俺は、そうだな……何か適当な理由つけて……家事で忙しいとか、そんな感じに言っておけば大丈夫だろ」
いや、そんなにアバウトで大丈夫か? と口には出さずに突っ込みつつも、信人は健一郎の放ってくれたシュートをお膳立てするようなパスを素直に受け取ることにした。
その後、もの凄い勢いで夕食を食べ終えた信人は、お盆を手に一階奥の由希子の部屋の前にやって来た。ここまで家の奥に来たこと自体が初めてなのに加えて、これから由希子に会うということもあって若干緊張気味だ。
「ふぅ〜」
緊張を和らげようと、ひとつ深呼吸をしてドアをノックした。
「どうぞ」
すぐに返事が聞こえてきた。これまでにも何度も聴いた声だが、少し弱々しく聞こえるのは気のせいだろうか。そんな風に思いながら、ドアを開く。
「あっ……」
予想外の人物の登場に、ベッドの上の由希子は驚きの声を上げる。
「あ、えと……健一郎のヤツが、家事で忙しいからって」
あらためて、無茶な言い訳だよな、と信人は思ったが由希子は「そう」と、あまり頓着する様子も見せない。熱で思考力が低下しているのか、それとも別に気にならないだけなのか信人には分からなかったが、取り敢えず拒絶されたりしなくて良かったと胸をなで下ろす。
少し気持ちに余裕の出て来た信人は部屋の中をさりげなく一望する。進学校に通っている勉強一筋、というキャラから実用第一なイメージを抱いていたが予想外に乙女ちっくな内装に少し驚いた。特に部屋の奥の棚に並んでいる沢山のぬいぐるみの眺めは壮観だ。こういった可愛らしい一面を見られて、信人は心の中でそっと健一郎に感謝した。
あまり室内をじろじろと見つめるのも悪いな、と思い視線をベッドで上半身を起こしてこちらを見ている由希子に映す。初めて見るパジャマ姿。ほとんど白に近いうっすらとしたピンクに、花模様だ。しかも、いつもはきっちりとまとめている髪がほどけ、熱で汗ばんだ顔にぺたりと張り付いている姿はなんとも言い難い色気を放っている。
思った以上にじっと見つめていたのか、由希子は恥ずかしそうに俯く。そんな姿もこれまで見たことがなかった。
「あの……こんな格好でごめんなさい」
不意に由希子がそう謝罪した。
「あ、いえ、全然気にしてないっすよ」
心の中では、むしろガッツポーズを作りながら、信人は平静を装う。
「それに……夕食作るって約束だったのに、本当にごめんなさい」
「そんなに気にしないでください」
「でも、吉澤君が凄く期待してるって健一郎が言ってたから」
「じゃ、じゃあ……また、今度体調が良くなったら作ってください」
思わず口に出してから、おいおい俺何言ってるんだよ、と信人。由希子もびっくりして、顔を上げて信人を見つめる。信人は顔が赤くなってないかと不意に心配になった。由希子はくすりと笑い。
「えっ……そうね、じゃあ今度」
「楽しみにしてます! ……あ、これどこに」
やっと本題に戻り、信人が置き場所を尋ねると、由希子は机の上に置いてくれと。信人は、机の上にお盆を置くと由希子の部屋を後にした。
「今夜は徹夜だぞ」
などと言うヤツに限って真っ先に寝る。そんな修学旅行的法則は見事に発動し、いつの間にか健一郎は布団に潜り込んで寝息を立てていた。少し呆れつつ、ふと部屋の壁掛け時計を見れば既に深夜近い。
さすがに一人で起きているのも空しいように思えた信人も、そろそろ寝ようかと思う。だが、その前に歯磨きとトイレを済ませようと、立ち上がり軽く伸びをしてから部屋を出た。
月明かりだけが唯一の頼りの廊下に出るとドアを閉め、しばし闇に目を慣らす。薄ぼんやりだが見えるようになると、足下に注意しつつ階段を下りる。信人の住むマンションと違い、日本家屋の夜は、昼とは全く別の厳粛だが、少し不気味な雰囲気に包まれていた。
階段を降りた時、ふいに家の奥の方から獣のうなり声のような不気味な音が聞こえた。
なんだ?
一瞬、驚きながら、音のした方向へ視線を向ける。廊下の向こう、闇深くに仄かな明かりが見える。
あそこは、確か。
奥行きのある作りの健一郎の家には、表と裏の二カ所にトイレがあったのを思い出す。奥の方には行くことがなかったが、夕食後に由希子の部屋へと食事を持って行った時に、その存在に気がついた。
闇で距離感に多少の不安はあるが、おそらくそのトイレ付近。
少し用心しながら、足音を立てないように気を配り、そっと廊下を進む。
山が近いから、時々野生の動物が来るって遠山が言ってたけど、それだとトイレじゃなくて台所だしなぁ。それに、照明がついてるのはおかしい。でも、泥棒がトイレに用があるってのも考えられないよな……。
と、その時。
「ゲエェ……オエエエェェェッ」
再び、先ほどよりも大きく、そしてはっきりと獣のうなり声のような不気味な音が聞こえた。これは! 信人はその瞬間、音の正体に気がついた。
嘔吐している時に出る声だ。間違いない。そして、信人と健一郎以外に今、この家にいるのは。
由希子さん!?
信人は家の奥へと急ぐ。近づくとより状況ははっきりとしてきた。明かりがうっすらと見えていたのは、ドアが半開きになっていたからだ。そのドアを全開にして中を覗き込む。横向きの洋式トイレの中で、夕食を届けた時とは別のパジャマ姿の由希子が、口から粘り気のある液体をだらりと垂らして、力なく便器を抱きかかえるようにしてうずくまっていた。
見ていいものかと思いながら、ちらりと便器の中を覗くと、そこには今まさに吐いたばかりと思われる由希子の胃の内容物がぷかぷかと浮いていた。
「由希子さん、大丈夫ですか!?」
物音に気付いたのか、それとも呼びかけに気付いたのか分からないが、由希子は少しびっくりした様子で、信人の方に顔を向けた。
「あ、だめっ、足下汚いから」
由希子が慌ててそう言ったので、信人はトイレの中へ踏み入れようとした足を中空で止め、その下を見る。するとそこには、トイレに入る前に我慢の限界に達したのだろうと思われるゲロが飛び散っていた。
だが、信人はそれを汚いなどと思う余裕もなかった。それよりも、由希子のことが心配でたまらないのだ。
「こんなのたいしたことないっすよ」
「でも……うっ!」
言葉は途中で途切れ、吐き気が再び込み上げて来た由希子は、表情を苦しそうに歪めて顔を便器の方へ向ける。
「うぇ……ええっ、げほっ……はぁ、うっ、げえええええぇぇぇぇ!!」
由希子の大きく開いた口から、大量のゲロが迸る。
ビチャビチャ、ドボッ……。便器の水に落ち、元々濁っていた水はいよいよ泥水のような状態になってきた。
信人は足下のゲロに注意をしながら由希子に近づくと、由希子の背中を恐る恐る、壊れ物でも扱うようにゆっくりとさする。拒絶されたらどうしよう、と一瞬思ったが由希子は拒絶どころか、小さく「ごめんなさい」と呟いただけだった。そし、またすぐに嘔吐を繰り返す。
「げぇ……おぇ、っ……はぁはぁ……げええぇぇ!」
汗ばんだシャツ越しに熱が伝わり。由希子が吐く度に、背中はびくんびくんと脈打つ。
「はぁ……はぁ……げっ、うっ、げぇ……」
口から吐き出される胃の内容物の量は随分と少なくなった。それでも、由希子は苦しそうにえづき、ついには何も出なくなり「うぇ、げぇっ……うぇ……」とただ空えづきばかりとなってしまった。
その様子をひどく心配しつつも、ただ出来ることは背中をさすることだけだ。信人は少し悔しそうな表情を浮かべ、それでも優しく由希子の背中をさすった。
「はぁ……ふぅ……ありが、とう。もう、落ち着いたから」
そう言って由希子は顔を上げ、トイレットペーパーを手に取り、手の汚れを拭き取り、再びトイレットペーパーを取り口の汚れを拭く。そのトイレットペーパーを自分の吐いたものを隠そうとするかのように、便器に広がるように捨てると由希子が水を流そうと手を伸ばす。信人はそれを身体で遮るようにして、コックをひねって水を流した。
「あ……ありがとう」
「いえ……由希子さんは少し休んでいてください。俺、水汲んで来ます」
信人は出来るだけ急ぎ足で台所へ向かい、コップに水を汲むとすぐに戻った。
「これ……」
そう言ってコップを手渡すと、由希子はコップの水を口に含み、ぐちゅぐちゅと口を濯ぎ、便器に吐き出す。そして、今度はこくんこくんと喉を鳴らして、残りの水を飲み干した。
「吉澤君……本当に、ありがとう……」
そう言って由希子は壁に手をついて立ち上がろうとする。
「危ない!」
なんとか、よろよろと立ち上がった由希子だったが、ふらついて、咄嗟に手を伸ばした信人の胸の中に倒れ込んだ。
「……ごめんなさいっ」
恥ずかしそうに謝る由希子だが、その声も弱々しく、信人は見ていられなかった。
「えっ……きゃっ!?」
放っておけないな、と思った信人は突然由希子を抱き上げる。所謂、お姫様抱っこの状態だ。
「本当に……大丈夫だから」
恥ずかしさから顔を真っ赤にする由希子。
「あれだけふらついていたのにですか?」
ちょっと厳しいかなと思う信人。だが、さすがに由希子はも反論することは出来ず黙ってしまった。沈黙の中、由希子を抱えた信人は由希子の部屋へと向かった歩き出した。
部屋に到着すると、由希子をゆっくりとベッドの上に下ろすと、由希子はそのまま横になった。
「後は俺がやっときますから……」
「そう……ありがとう……」
弱々しい声からは、やはり相当消耗していることが感じ取れる。
もう大丈夫なのだろうか? と風邪とは無縁の信人はよく分からず、心配なのでしばらく様子を見ることにした。
信人のことを全面的に信頼仕切っているのか、それとも疲労が限界なだけなのだろうか? しばらくすると由希子は寝息を立て始めた。
由希子の寝顔をしばらく見つめていた信人はふと我に返り、後片付けの為に部屋を後にした。
トイレに戻り、トイレットペーパーを使って徹底的に汚れを拭き取る。臭いも少し残っているように思い、消臭スプレーも大量に放つ。臭いが薄れたのか、それとも自分の鼻がおかしくなったのかよく分からないような状態になってしまったが、これだけやれば大丈夫だろう、と手を止める。
あらためて、トイレの周辺に汚れが無いかとチェックするが、さすがに徹底的にやっただけあって全く汚れは見あたらない。
「よし!」
その後、手を洗い、由希子の部屋に必要になるかもしれないと思い、飲み物と洗面器を持って行く。部屋の机に飲み物と洗面器を乗せたお盆を置いた音に気付いたのか、由希子は寝返りを打ち、こちらに顔を向けると少し目を開いた。
「まだ、ちょっと……気持ち悪い……」
「えっ、ちょっと待った!」
口元を押さえて起きあがる由希子に信人は慌てて、洗面器を持って駆け寄る。
洗面器を由希子の前に差し出した、その直後。
「ぶっ、うええぇぇ!!!」
由希子の口からさっき飲んだばかりの水が迸る。バシャーーー、と音を立て若干濁った水が洗面器に広がった。
「はぁ……はぁ……うっ、ええええええ!!」
もう一度、先ほどよりは少ない量の水がパシャパシャと、洗面器に広がる。その量はトータル、先ほどのコップの水一杯分。
「はぁ……はぁ……また、吐いちゃった……吉澤君、ごめんね。汚いよね……」
「そ、そんなことないっすよ。それより、本当に大丈夫ですか!? 医者に行った方が」
「くすっ。こんな時間じゃお医者さんはやってないわ」
「え、あ……でも、ほら救急医療とか」
「本当に、大丈夫。もう……大丈夫だから……」
由希子のその呟きにも似た言葉は、信人に言い聞かせると共に、自分自身にも言い聞かせているように信人には思えた。
その後、洗面器の中身を捨てて、再び由希子の部屋に戻ってみると由希子はすやすやと寝息を立てていた。先ほどのこともあって心配な信人は、ベッドの傍に座って由希子の寝顔をじっと見つめていた──。
「ふぁ……」
欠伸と共に、信人は目を覚ます。えらく変な体勢になってるな、と思いながら顔を上げるすぐ目の前に由希子の寝顔が見えた
「うわっ」
思わずのけぞり、それと共に一気に記憶は甦る。由希子が心配で様子を見ようと思っていたのが、いつの間にか眠ってしまったのだ。由希子が目を覚ます前に退散しないと、と立ち上がる。だが──。
「んっ……」
由希子が小さく声を発した。思わず、硬直して由希子の顔を見つめる信人。すると、由希子の目がゆっくりと開く。
「えっ、きゃっ!」
由希子は悲鳴を上げて、少し壁の方へと後ずさる。
「あ、何も、何もまだしてないです!」
「まだ!?」
「え、いや、そうじゃなくて。そりゃ、いつかはと、でも、まだ、そんなんじゃないです」
もう支離滅裂だ。だが、信人の混乱が逆に由希子を冷静にさせたのだろう。
「あっ……そっか、昨日」
「そ、そうです。すんません、気付いたら寝てました」
信人は直立不動になって、深く一礼すると由希子が口を開く前に「失礼しました」と言い放って部屋から慌てて出て行った。
由希子はその姿を驚きの表情で見ていたが、信人が去っていくと、ぷっと吹き出し、一人くすくすと笑い続けた。