{1}
「いい加減にしろよ!」
和やかな空気が支配していた昼休み時。そこに突如切り込んできたのは、怒声。
教室の空気は一変し、誰もが声のした方に視線を向ける。
そこでは二人の男の子が、大きな声で何事かを言い争っていた。
周りの友人たちは、間に入りなんとかなだめようと必死だが、二人は今にも取っ組み合いの喧嘩でも始めそうな気配だ。
「ほんと、男子ってガサツよね」
呆れたような口調で、友人に話し掛ける女の子。
けれど、話し掛けられた女の子は沈黙したままだ。
「どうしたの、美晴?」
美晴と呼ばれた女の子は、血の気の失せた強張った表情でじっと二人の男の子たちを見つめていた。
「ぐっ……」
不意に、喉元が不自然に動く。
慌てて手で口を押さえようとしたが、間に合わない。
「オエエエエエッッ!!!」
つい先ほど、食べたばかりの昼食がごちゃまぜになった嘔吐物として、ビチャビチャと汚らしい音を立てて机の上に飛び散る。
「はぁ……はぁ……」
大きなえずき声と、教室中に一気に広がる酸味の強い臭いに、教室内は騒然とする。
「ちょっと、美晴大丈夫?」
友人に背中をさすられる美晴。
「私、先生呼んでくる」
誰かがそう言って、教室を飛び出す。
また、もらいゲロを恐れてか、顔を背けて距離を取る者もいる。中には、あからさまに嫌そうな表情を見せて、教室を出て行く者も。
そして、激しく言い争っていた二人も、すっかり毒気を抜かれた表情で、美晴の方を見つめていた。
「受験のストレスね」
養護教諭にそう断定され、美晴はベッドに横になる。
「少し休むといいわ」
「はい……」
「それじゃあ、私もう行くね」
「うん。ありがとう」
保健室まで付き添ってくれた友人に軽く手を振る。向こうもそれに手を振り返し、保健室を後にした。
カーテンが閉じられ、美晴はゆっくりと目を閉じた。
受験のストレス──ううん、そうじゃない。多分あれが原因。
美晴には吐いてしまった理由に心当たりがあった。
{2}
中学受験を目指している秋風美晴は、少し前まで塾に通っていた。
その日は、朝から少し調子が悪かった。出来れば休みたかったが、母親に説得される形で結局塾に行くこととなる。
塾は夕方から夜まで。学校が終わると真っ直ぐ家に帰り、お腹に少し入れて母の車で塾に行くのが基本だ。
母の用意したラーメンを、いつもなら楽々食べるのだが、この日は少しつらくて何度もお茶を飲みながら、なんとか食べ終えた。
母の運転する車に乗りながら、お腹をさする。
少し気持ち悪い……。
休みたいのには、もう一つ理由があった。
この日の授業の講師が、苦手だ。初めて対面した時には温厚そうに見えたのだが、授業になると非常に怖いのだ。少しミスをすると、大声で怒鳴り、時には机を激しく叩いたり蹴ったりする。
授業のことを思うだけで憂鬱な気分になり、ますます気持ち悪くなってきた。
「ねえ、やっぱり休みたい……」
そう言っても、母親は「何言ってるの」と取り合わない。
渋々、塾の教室へと重い足取りで入る。
しばらくして授業が始まった。
いつものように、最初は穏やかな表情で授業は進む。
けれども教室の空気はピリピリと強張っている。
いつ、どの瞬間で爆発するか分からない。みんな、その瞬間が怖くて緊張しているのだ。
その空気がますます気分を悪くさせる。
どうしよう。気持ち悪い……。あっ!
後方の席でこっそりお腹をさすりながら、他の子が前に出てホワイトボードに答えを書き込んでいるのを見て、それが間違っていることに気付く。
嫌な予感が──その瞬間、ドン! と激しい音が部屋中に響く。
「何度言ったら分かるんだ!」
ビリビリと壁が震えそうな大声に、びくんと身が竦む。
あ、やだ、だめ──!
ごぼり、と胃の中身が迫り上がってくる。
「っ!?」
口の中に広がる嫌な感触を堪え、口を押さえる。
そんな状況にも、誰も美晴の様子に気付かない。
誰もが視線を下に向けて、ただ嵐が過ぎ去るその時を待っているからだ。
「んんっー!」
必死の飲み込もうとするが、そこが限界だった。
「オエエエエッッ!!」
多量の水分を含んだ、麺類が長机の上に次々と吐き出される。
あまりにも突然の事態に、誰もが言葉を失って美晴の方を見ていた。
恥ずかしさと苦しさに、目には涙を浮かべる美晴に対して、追い打ちが掛けられる。
「おい、何吐いてるんだ!! ばかやろうっ!!」
結局、その日以来塾には行っていない。
それどころか、人が言い争っていたりすると、強い吐き気を覚えるようになってしまった。
こんなんじゃダメだ……そう思っても、どうしたら治せるか分からない。
けれど誰かに真実を打ち明ける勇気もない。
私、受験大丈夫なのかな?
美晴の心を覆う不安はとても晴れそうになかった。