夜空に月は見当たらない。分厚い雲が空の全てを覆い、どこまでも続く闇、闇、闇。
ごうっ。
激しい風が吹き抜けて、木々がぎしぎしと傾ぐ。風に翻弄される枝葉がぶつかり合いばさばさと音を立てる。
がんっ、ごんっ……がっ。
何かが風に飛ばされて闇の中を横切り、闇の向こうで何かに激突した。
そして、風と共に雨が降り出した。
ざざざぁっ。
風に煽られた雨が、闇の中にぼうっと浮かぶ二階建ての建築物の窓から洩れる明かりに照らされて、まるで意志を持ったかのように縦横斜め自由自在に飛び回っている姿を現す。
私立立華女学院女子寮。昭和初期に建てられた洋風建築。ここはスポーツ特待生として全国各地から集まった少女たちが寝食を共にする場所。
夕食を食べ終えて、食堂のおばちゃん(本人の前でそういうと怒られる)に頼んでおいたお粥を受け取った有理はそのまま真っ直ぐに部屋に戻るつもりだった。ところがその途中、他の寮生と一緒になって、談話室でついついニュースの台風情報を見てしまったのだ。
地方局故の電波の弱さか、バリバリのノイズ入りの地元テレビだが、やはり情報については一番正確だ。まだ、大きな被害は出ていないが、まっすぐと直撃コースを突き進む台風の進路図。そして、直撃の予定時刻は真夜中。学校が休みになるのは絶望的と知って嘆く生徒や、真夜中にどれぐらい激しい風雨になるのかワクワクする生徒たち。
有理は両手に持つトレイの重さに気付き、少し急ぎ足で部屋へと向かった。
階段を上り、回れ右。そのまま部屋を二つ越えたところが有理の部屋。正確には有理ともう一人、光希との相部屋だ。古くからの慣わしとして、寮では相部屋と決まっていた。そして、有理は一年・二年と共に光希との相部屋であった。
もっとも同部屋=同クラブが基本である為、倍率自体は高くなく、またほとんどの寮生が二年になって同居人が変わる、ということもないのでそれは必然といっても良いことだ。そして、寮で育まれた友情は長きに渡って続いていくと言われている。
部屋の前に辿り着いた有理は、ひとつ呼吸を置くとドアノブに手を伸ばした。
きいぃぃ……。
木製のドアを開くと閉め切られた室内から淀んだ空気が外に吐き出され、有理は思わず表情を曇らせた。
「ただいま!」
いつもように一声掛けて中へと入る。
風呂もトイレも無い左右対称の室内は、入って手前から洋風タンス、遮光カーテンのついたベッド、勉強机と同じ高さの本棚、そして突き当たりの窓。これは全ての部屋に共通している造りだ。
「ミッキー……起きてる?」
中に入った有理は向かって左手のカーテンに閉ざされたベッドに声をかける。
ミッキーとはもちろん同居人の光希のことである。これまた古い習慣で、寮生にはカタカナで表記されるニックネームが与えられる。光希=ミッキー、そして有理=ユーリとなんとも捻りもないニックネームだが、昔からロクな呼ばれ方のしたことのない有理は結構気に入っていたりした。
有理の声に反応してか「んっ……」と小さな声。カーテンの向こうでシルエットがもそもそと動き、カーテンが開くと光希が姿を見せた。
学校ではしっかりとゴムで結わえられている長い髪が乱れて、汗ばんだ光希の顔にべっとりと貼りついている。いつでも笑顔でチームを引っ張る光希らしくない辛そうな表情に有理も胸が痛くなった。
「食堂でお粥作ってもらったんだけど……」
夕食時間になり、有理は光希に食堂に行かないか? と問い掛けた。けれど光希の返答は「今、食堂に行ったら気持ち悪くなって吐きそう」であった。そこで、有理は食堂のおばちゃんに頼んでお粥を作ってもらったのだ。
けれど光希は有理の言葉に僅かに顔をしかめた。まだ、あまり気分が良くないのだろう。
「ごめんなさい、あんまり食欲ないの」
光希が弱々しく呟く。
こんな光希を見るのは一年の時、入部当初の長距離走ばっかりをやらされたいた時以来だ。もっともあの時は光希だけでなく、ほとんどの一年生は酷い有様だった。けれどそれが今の運動量豊富なチームを作っているのだ。
食べたくない、というのは理解出来る。けれど──。
「だーめっ、少しでもいいから食べなよ。じゃないと元気にならないぜ」
少し強い調子で、それこそいつものキャプテンユーリの口調で言葉を放つ。
そんな有理の強い口調に光希も渋々といった表情で頷いた。
「よし。じゃあ、まず起きないと……」
言いながら、有理は光希の上の布団を引っぺがす。
「あっ……」
突然のことに光希は驚きの声をあげて、何故か両手で身体を隠す。
「ちょっと、何やってんの?」
「だって……」
両手で隠しても、隙間だらけで光希のパジャマ姿がくっきりと露わになる。有理はそこで気付いた。光希のパジャマは汗でぐっしょりと濡れそぼって、光希の肌も下着もくっきりと透けているのだ。どうやら光希はそのことに薄々気付いていたようだ。
「色っぽい……」
思わず有理は本音を漏らす。
「えっ?」
「あ、なんでもない、なんでも。それより、着替えないと……あっ、タオルタオル」
少し焦り気味になりながら有理は洋風タンスからタオルを取り出す。その様子を不思議そうに見つめていた光希は、ゆっくりとパジャマのボタンを外す。タオルを手にした有理が呟いた。
「ねえ、私が拭いてあげよっか?」
「えっ……?」
「いや、むしろ、やらせて。こんな機会滅多にないし」
「で、でもっ」
脱いだパジャマを胸元で抱きしめて光希は困惑を露わにする。
「いいから、いいから」
だが、強引に有理はことを進めていく。
ベッドに腰を掛けると、タオルでゆっくりと丁寧に光希の背中を拭きながら、光希の背中を見つめる。
有理と光希の身長はほとんど変わらない。だが、力強いプレースタイルが特徴の有理と違い、光希は技術で勝負するタイプだ。それは、身体付きに大きな違いとなって現れている。
有理のがっちりとした身体。それとは対照的に光希の身体はほっそりとしている。
とても、チームでトップクラスの選手とは思えない身体だ。
「うー、やっぱりミッキーの身体が羨ましい……」
有理にとって理想的なプロポーションだ。
「そう? 私はユーリの身体も素敵だと思うわ」
有理は苦笑する。筋肉フェチ気味な光希に褒められるのは女性として良いことなのだろうか?
「さ、次は下。脱いで」
「……」
だが、さすがに抵抗があるのか。光希は恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いてしまう。
「ねえ、さっさとしないと風邪が悪化するよ」
「ミッキーの意地悪……」
大きな溜息を一つ吐いて、光希は下を脱ぐ。ズボンだけでなく、ショーツも汗でぐっしょりに濡れ、有理はドキドキしてきた。
ヤバイヤバイ。有理は雑念を振りほどこうと必死になる。
なんだか、このままではいけない世界に突入しそうだ。
幾ら、彼女のことが好きだとしても……。
すらりと伸びた光希の足。こちらも有理のがっちりとした足に比べると華奢だ。それに、全体的に有理と比べると色白なのだ。
タオルを裏返し、光希の足を下から上に汗を拭う。
「あんっ……」
突然、光希が喘ぎ声を上げた。
「ごっ、ごめん!!」
有理のタオルを持つ手が、光希の丁度股間に当たったのだ。
「もう、ユーリったら……」
光希は顔を羞恥とそれ以外の何かで赤らめた。
「これでよし、っと」
有理が光希の身体を拭き終えると、光希は新しいパジャマに袖を通す。
一方の有理は折り畳み式の机を用意する。
机の上に置かれたお粥。有理が蓋をそっと開けると、熱気に包まれて美味しそうな匂いがふんわりと有理の鼻腔をくすぐる。
「いい匂い」
有理の向かい側に光希は新しいパジャマ姿で座る。女子寮+体育会系ということもあって、平気であぐらをかく寮生も多い中、光希はぺたんと女の子座りだ。そんな光希の姿はなんだかとても女の子らしく思えた。
有理は自分のあぐらが恥ずかしくなり正座する。
しばらくれんげを手にお粥をじっと見つめていた光希だったが。意を決したのかそっとお粥をすくい、口許へと持っていく。
「っ……ゲホッ、ゴホッ!!」
と、光希は突然苦しそうに咳き込んだ。
身体をくの字に折り曲げ、れんげからお粥が机の上に零れる。
「ちょっと……大丈夫!!」
慌てて光希の横に移動してその背中をさする。
「ケホッ……ヒュー、っ……ごめ、だい……じょうぶ」
光希は呼吸をゆっくりと整える。
「もう、いきなりだからびっくりしたよ」
「私も……びっくりしたわ」
そう言って、今度はさっきよりもゆっくりと慎重にお粥を口に運ぶ。
「ふぅ……」
「どう? 美味しい?」
「あまり、味しない……」
「そりゃ、熱があるから」
「……うん」
再びお粥を口にする。
「コホッ……」
「ホントに大丈夫?」
心配そうに有理が横から光希を覗き込む。
「私ね……昔から、気管支がちょっと弱かったの」
「えっ?」
突然の告白に有理は驚きの表情を浮かべる。
光希と知り合って二年だが、そんな素振りは全くと言っていいほどに見せなかった。
「嘘……」
「ほんと」
再びお粥を少し口にする。
「よくあることだけど、昔は私、身体が弱かったの。だから心配した母が何かスポーツしなさいって。で、私は今ここにいるの」
「そっか……お母さんに感謝しないと。ミッキーが丈夫になれたのも……それに、私に出逢えたのも、お母さんのお陰だね」
光希がくすりと笑った。
「たしかにそうね。本当に感謝しなきゃ」
本当にそうだ。有理は、以前に一度だけ挨拶をした光希の母を思い出して、頭の中で感謝のお辞儀をする。
……ありがとうございます。
「ん……どうかしたの?」
「別に……それより、しっかり食べて、しっかり体力回復させて、とっとと病気を治しな」
「分かっているのよ……でも、食欲が」
実際、いつもの食事のペースに比べるとはるかに遅い。
それでも、光希は有理の励ましを受けて少しずつ少しずつお粥を胃の中に納めていく。時々、咳き込んだり、手を止めたりしながらも量は確実に減っていく。
「ごちそうさま」
結局、半分と少しを光希は食べたところで箸を置いた。
「うーむ」
「どうしたの?」
「いや、勿体ないなと思って。残り貰っていい?」
「風邪が移るわよ」
「大丈夫だって」
有理はにこやかに笑うと(下級生は王子スマイルと呼んでいる)、光希の残したお粥をあっという間に平らげた。
「早いわね」
「ミッキーもいつもこんなんじゃない?」
「そう?」
「うん、間違いない」
がたんっ。
その時、突風が窓を激しく揺らした。
じぃっ……。
一瞬、明かりが弱くなり、再び元の明るさに戻った。
「凄いね」
有理は、立ち上がると窓の傍へと歩み寄る。
古い時代の古いガラス窓は野暮ったく感じるが、そのあつかましいまでの分厚さはこんな夜には逆に心強い。
「台風……夜中に直撃だって」
「そう……」
僅かに光希の表情が曇る。
「どうかした?」
「ちょっと気になって……」
「気に……?」
「ううん、いいの、気にしないで」
だが、光希の表情は相変わらず不安に満ちていた。
「大丈夫、私が傍にいる」
何が不安なのかは分からない。けれど、有理は力強くそう宣言した。
光希は少し表情を和らげて「もう寝るわ」と告げるとベッドの中に潜り込んだ。
まだ就寝時間ではない。有理はいつものように予習復習をする。時折、遮光カーテンの向こうから光希の咳き込む音が部屋に響く。
がたがたっ……ゴホッ……がたん……ヒュー……ざざぁぁ……。
台風は更に近づき、窓の外は大荒れだ。雨と風が窓を激しく叩き、いつになく喧しい真夜中。
だが、音はそれだけではない。先程から断続的に繰り返される異音。
遮光カーテンの向こう、光希は苦しげに表情を歪めて、ぎゅっと掛け布団を握りしめて、身体をくの字に折り曲げている。
「ゲホ、ゲホッ……ゴホッ、ゴホゴホッ!! ゲホゲホッ……ヒュー、ゼェゼェ……」
台風の接近と共に光希の体調は著しく悪化していた。有理が起きている時には、なんとか心配されまいと気付かれまいと必死に押し止めていた咳だが、台風の接近と共に抗いがたい程に強烈になる。
そして、一度堰を切ったように迸った咳は止まることを許さない。
「ハァハァ……ゲホッ、ゴホッゴホッ!! ……ヒュー、ゲホッ……っ!!」
あまりの咳き込みっぷりに吐き気が込み上げてきた。
喉元までせり上がってきた胃の内容物をなんとか飲み込み、光希は苦しさから上半身を起こす。少しは呼吸が楽になったが、相変わらず咳は止まず、時折吐きそうになる。
「……ゴホッ、ゲホッ、ゲホッゲホッ……」
「……んっ……?」
何度も繰り返し部屋の中に響く光希の咳音に有理が目を覚ました。しばらくはそれが咳と理解出来ず、ぼんやりと何か変な音がするという程度だった。だが、思考がはっきりするにつれて、有理は就寝前に時折聞こえた光希の咳を思い出す。
次の瞬間には有理は遮光カーテンを開いて、慌てて向かいの光希のベッドへと歩み寄る。
間違いない。咳はそこから聞こえてくる。
「ミッキー?」
小さく声をかける。
「ゴホゴホッ……ユーリ? ごめ、ゴホッ……起こしちゃった?」
苦しそうな咳で言葉も途切れ途切れだ。
有理は遮光カーテンを開き、中の様子を確認する。豆電球の僅かな明かりに照らされた光希は、ベッドに座り込んで、少し前屈みになって何度も咳き込んでいた。
有理はベッドの縁に腰掛けると、光希の背中をそっとさする。
「大丈夫?」
「ハァハァ……ゴホッ、ゲホッゴホッ……」
だが、返答のかわりに返ってきたのは激しい咳であった。
「ゲホッ……ゲェ、エッ……」
それまでの咳とは異なる不気味な音が光希の口から発せられる。光希は、右手を口許にあてがい苦しそうに表情を歪めた。
ポタッ……ポタッ……。
光希の右手から粘り気のある液体が零れた。
んっ……? 有理は何が起きたのだろうかと顔を近づける。その途端。何かが弾けた。
「えっ!?」
「ゲエエェェ!! ウォェーーー!! ゲホッ、ゴボッ……ゲッ、ガッ……ハァハァ……ゴホゴホッ!!」
光希の口から一気に溢れ出した嘔吐物は、その激しい勢いもあって辺りに飛び散る。お粥をベースにしたと思われる暖かなゲロは布団の上に飛び散り、有理の顔にもかかった。さすがの有理も一瞬何が起きたのか理解出来なかった。
ただ、分かったのは何かが顔にはねたこと。そして、強烈な臭い。
臭いで何が起こったのか気付いた。体育会系の部活だと、入部間もない一年生がよく見せるゲロ。その独特の酸味を含んだすっぱい臭いだ。
「ミッキー。大丈夫……ちょっと、しっかり」
有理の言葉にも光希は苦しそうに咳き込むばかりだ。
「ゴホッ、ゲホッ、ウェ、ゲッ……ゴホッ、ゴホッ……ヒュー、ゲフゲフッ」
とっさに手を出したことで幾らかの胃の内容物は口の中で留まった。だが、次の瞬間に再び咳に襲われて、胃の内容物はそのほとんど結局口から外に吐き出され、更に校内に残ったモノが気管に入り激しく噎せる。
「ゼェゼェ……ゴホッ、ゲッ……オェェ、ゲホッ……」
再び光希が嘔吐する。先程よりも量は少ないが、ビチャビチャと先程の嘔吐物の上に降り注ぐ。
有理は濃厚な嘔吐物の臭いにもらいそうになりながら、それでも光希の背中をさする。だが、光希の状態に放っておくことも出来ない。先生を呼びに行くべきか? だが、このまま放っておくのも不安だ。兎に角もう少し様子を見よう。
「ミッキー、しっかりして!」
励まし、背中をさする。
ミッキーは咳き込み、嘔吐しながらも、こくりと頷いた。
いつの間にか部屋の中には光希の咳き込む声だけが響いている。台風の目に入ったのだ。
「ゲホッ……ゴホッ……ゼェゼェ……」
瞳には涙を浮かべ、苦しげに震える光希。
有理は何も考えず、光希の為を思ってその手をぎゅっと握りしめた。力付けたい、そんな思いからだ。
「……ユーリ? ゴホッ……、ダメ、汚い……から」
有理の手をぬるりとした感触が這い回る。光希の嘔吐物だ。けれど有理は気にしない。
「大丈夫……大丈夫……」
優しく背中をさすり、子守歌のように何度も「大丈夫」と繰り返す。
それが効いたのか、徐々に光希の呼吸が落ち着きを見せ始める。
緩やかに時は流れる。ふと、有理が気付くと光希は有理に抱かれるようにすやすやと寝息を立てていた。苦笑した有理だったが、さてこの場合どうするのがベストなのかとしばらく悩んだ。出来ればこのまま眠らせてあげたい、と思ったが、嘔吐物の臭いと、ベチャベチャな状態で朝までいるのはマズイだろう。
「ミッキー……」
有理はそっと光希に呼びかけた。