今日は月曜日。
おそらく中間考査の上位者が掲示板に貼ってある。
一体、私の順位はどのあたりだろう? そして彼女の順位は……。
考えるだけで胃が痛くなる。けれど、親の期待に応えて入った学校をサボるのはいけないことだ。
お腹を押さえ、無い気力を振り絞り綾佳はいつもの通学路を歩き始めた。
一学期の中間考査が終わり、土日を挟んで新しい週がやって来た。
テスト明けの浮かれた気持ちと、再び始まる勉強の日々に複雑な思いを抱きながら生徒たちが登校してくる。だが、学校へと入り校舎前の大きな掲示板を目にした途端、生徒たちの表情は一変する。
そこには、中間考査における総合成績上位者の名前が貼り出されていた。特に、一年生はまだ二度目とあってどの生徒も食い入るように掲示板を見つめている。
真理原絵梨那がそこにやって来た。いつものように、どこか高貴さと尊大さを漂わせる女王様は、いつものように二人の付き人を後方に従えている。
「まあ、さすがは絵梨那さま」
付き人、その一の下田夕子が嬉しそうに声を上げる。
絵梨那は掲示板を見上げて順位を確認する。夕子の喜びが伝えるように、一年生の最上位に一際大きな文字で「真理原絵梨那」の名前が掲示されている。
その順位に絵梨那はニコリともせずに、視線を下へと落す。
「まあ、あの娘は六位ですわ」
付き人、その二の伊庭千鶴子がわざとらしく大きく声を張り上げ、夕子と一緒に大声で笑っている。
あの娘、藤崎綾佳は千鶴子の言葉通り順位を前回の一位から六位に順位を下げていた。だが、絵梨那はその事が気に入らなかった。たしかに順位は一位だが、前回の入学式直後に行なわれた実力テストでの綾佳の点数には及んでいなかった。それが凄く腹立たしいのだ。
──あの娘は? 絵梨那は最近いつも頭に浮かぶ綾佳の事が気になりあたりを見回した。すると、すぐに綾佳の姿が見つかった。学年でも前から数えた方が早い小柄な姿を、絵梨那は何故かいともたやすく見つけることが出来る。
綾佳の方は絵梨那に気付く事も無く掲示板を見ている。
──何を考えていますの? 綾佳の表情をじっと観察する絵梨那。それまで固い表情で見ていた綾佳の表情がふいに緩んだ。どこか、ほっとした表情を見せる。そして、その直後に綾佳は絵梨那の視線に気付いた。
二人は見詰め合う。張り詰めた空気が漂い、短い時間がとても長く感じる。先に視線をそらしたのは綾佳だった。一瞬、動揺の色をたたえ、まるでその事を気付かれるのを避けるかのように慌てて後ろを向いて立ち去ろうとする。
絵梨那の方も、自然と人並みを掻き分けて綾佳の後を追いかける。少し、開いた差を絵梨那は早足で縮る。
「藤崎さん!!」
丁度、トイレの前で絵梨那は強い口調で綾佳を呼び止めた。
後姿の綾佳は、絵梨那の声にビクっと肩をすくめ、おそるおそる後ろを振り返る。
「な、なに?」
明らかに狼狽した声で綾佳は返事をした。
「ちょっと、お話ししません?」
絵梨那は強引に綾佳の手を取る。綾佳の手の温もりに不思議な気持ちを覚えつつ、綾佳の手を引っ張りトイレの一番奥の個室に二人で入り、鍵をかけた。
逃げ場を失った綾佳は恐怖に顔を強張らせ、少し震えながら絵梨那から視線をそらすように下を向いている。
「貴女……先程、ほっとしたような表情していらしたけど」
ゆっくりとした口調、ぞっとするほど冷たい声で絵梨那は話しかける。
「どうしてテストの成績が下がっていらっしゃるのに、ほっとするのかしら?」
下を向いたまま綾佳は答えない。結果として綾佳は絵梨那に負け、ほっとしていたのは真実だった。だが、その事が逆に絵梨那の逆鱗に触れてしまったようだ。
綾佳の、テストで負けたら友達としてちゃんと見てもらえるかも、という考えは脆くも崩れ去った。
「まさか……わざと、テストで手を抜いて負けたのじゃありません?」
絵梨那は全く返事を返さない綾佳に苛立ちを募らせ、ふと思いついた言葉を口にした。
──まさか、いくらこの娘でもそんな事はありませんわよね。
だが、絵梨那の思いと裏腹に、綾佳は絵梨那を見上げてなんとも複雑な表情を浮かべた。
手を抜いた。綾佳にしてみれば、それは真実ではなかった。もともと、生真面目な性格でテストで手を抜く事の出来るキャラでもない。もっとも、あの日、手を抜いたら、と思ったのは事実だった。ただし、実際に点数が低かった最大の要因はお腹の調子が悪かったからだ。特に、最終日の最後の時間は便意に耐えるのに必死で見直しはおろか、いつもならしっかりと覚えているテストの内容も記憶になかった。それほどに切迫した状況に追い込まれていたのだ。
「あ、あの……」
だが、言葉は出てこない。綾佳の頭の中では、あの後の事が次々と浮かんできた。電車の中で粗相をした事。ショックに呆然とする綾佳を絵梨那が助けてくれた事。その後の絵梨那とのやり取り。そして、家まで送ってもらった事。
あの優しさはなんだったのだろう? ぼんやりとそんな事を考えてしまう。あの時、綾佳はこれで絵梨那と仲良く出来るのでは、と淡い期待を抱いていた。
虚しくて、悲しくて、苦しくて、綾佳は自分でも気付かないうちにポロポロと涙を流し始めた。
「ごめんなさい……わたっ、わたし……ひっく……ごめんなさい」
何に謝っているのかも分からない。ただただ、涙を流し綾佳は謝罪の言葉を繰り返した。
一方の絵梨那も、突然の綾佳の涙に動揺した。この前の時といい、綾佳の涙を見ると無性に心が痛む。だが、ここで矛をおさめるのはプライドが許さなかった。
「そうね……」
口を開き、しばし思案する。
「わたくしの言う事を聞けば許してあげてもよくってよ」
「えっ……!?」
綾佳は涙を流しながら、それでも嬉しそうな表情を見せる。その表情を見ると、今度はなんだか無性に腹がたってきた。
何かを期待するように絵梨那を見上げる綾佳。その嬉しそうな表情を、絶望させてやりたい……そんな感情が芽生えた。
絵梨那は、綾佳の顔にすーっと自分の顔を寄せて、耳元で小さく何事かを囁いた。
「そんな……」
「楽しみにしていますわ」
満面の笑みを浮べ、呆然とする綾佳を個室に残して、絵梨那はトイレを後にした。
トイレの一番奥の個室から声が僅かに漏れる。
「まだ、いけるのではなくって?」
「む……無理です」
「入れなさい」
「で、でも……うぅ」
「ホラホラ、これで流し込むのよ」
「ううっ……」
「クスクス。あらあら、こんなにぽっこりと……」
「もう……だめ……」
「そうね、これでいいわ」
お昼休み。全校生徒にとって一日の中でもっとも嬉しい時間。
いつもであれば外で昼食を摂る絵梨那と綾佳、他二名だったが今日は珍しく絵梨那の命令で教室での昼食となっていた。
絵梨那が綾佳を連れ立って教室を出ていった後、残された夕子と千鶴子は机を並べて二人が戻るのを待っている。
「私、最近絵梨那さまのお心がわからないわ」
机を動かしながら夕子が突然口を開いた。千鶴子は、机を運ぶ手を止めて夕子を見つめる。
「私もよ」
千鶴子の言葉に、夕子もやっぱりと言った表情になる。
「あの娘のどこがそんなにいいのかしら……?」
「本当に……」
最近、綾佳にご執心の絵梨那の行動は夕子と千鶴子には理解し難いものであった。これでまでの絵梨那は、それこそ他の生徒に興味を持ったことなど無かった。それは、夕子と千鶴子にしても例外でない。しつこく付きまとった結果、絵梨那が面倒になって傍にいるのを許しただけであって、夕子と千鶴子の事にとりたてて興味を持っているわけではなかった。
たしかに、テストで絵梨那を初めて破った人物として絵梨那の胸にその名が刻まれているのは間違いない。だが、近頃の絵梨那はそれ以上の何かを綾佳に対して感じているのではないか、夕子と千鶴子にはそう思えた。
「待たせたわね」
夕子と千鶴子を教室に残し、どこかへ行っていた二人が戻ってきた。
ご機嫌な様子の絵梨那が席につく。一方の綾佳は蒼褪めた表情で立っている。
「ちょっと何やってるの? 早くお座りになって」
絵梨那に促され、綾佳はぎこちない動作でゆっくりと椅子に座り、苦しげに吐息を漏らした。
「さあ、頂きましょう」
絵梨那、そして夕子と千鶴子は順調にお弁当の中身を減らしていく。ただ一人、綾佳だけはほとんどお弁当に手をつけていない。
「藤崎さん、全然食べてないけどどうかしたの?」
何も知らない夕子が尋ねる。
「本当に大丈夫?」
絵梨那も心配そうな声を出すが、目は笑っている。
「だ、大丈夫です」
言って、無理矢理お弁当の食事を口に運ぶ。だが、吐き気が込み上げてすぐに手が止まる。
「わたくしが少し食べてあげますわ」
綾佳のお弁当へと箸を届かせるために少し身体が綾佳に近づいたその時、絵梨那が小さく囁く。
「さあ、早く……」
綾佳は朝の絵梨那の言葉を思い出す。
──昼食中に、教室で嘔吐しなさい。
そして、更に迷っていた綾佳を絵梨那はお昼休みに入ってすぐトイレに連れ込んだ。そして、そこで売店で買っておいた食べ物を無理矢理綾佳に食べさせたのだ。
今、綾佳のお腹はその時の食べ物と、食べ物を流し込む為に使われた飲み物でパンパンだ。もう、目の前のお弁当の中身を入れる事は不可能に思える。
もう、吐くのは時間の問題だが、綾佳はそれに必死に抵抗する。やはり、こんな人前で、教室では昼食を食べている生徒が十数人いる、そんな場所で吐くなんて出来ない。
「ふぅ……」
絵梨那が小さく溜め息をついた。中々吐かない綾佳に苛立ちを隠せない。
──仕方がありませんわ。 ごそごそとポケットを探り、一枚の写真を向かいの夕子と千鶴子に見えないように注意しながら取り出す。そして、そっと綾佳にだけそれを見せた。
綾佳の表情が豹変する。それは、パンツを茶色に染めた制服姿の綾佳であった。テスト最終日の、あの時に撮られたのは間違いない。ショックに頭が真っ白になる。そして、その衝撃が綾佳の必死の抵抗にトドメを刺した。
「オエエエェェェーーーー!!!!」
教室中に不気味な声とも音ともつなかないものが響き渡る。
咄嗟に押さえようとした手よりも一瞬早く、綾佳の口から大量の吐瀉物が吐き出された。流し込む為に用意されたオレンジジュースと、数種類のパン・焼きそばなどがごちゃ混ぜになった無気味な色と吐瀉物は綾佳の向かいに座る千鶴子の机にも飛び散り、千鶴子の膝の上にビチャビチャと流れ落ちる。
「ゲエェ!! ウゲェーー!! オェッ!!」
それでも治まらない、むしろ強まった吐き気に綾佳は何度も何度も搾り出すように口から吐瀉物を垂れ流す。
「キャアアァァ!!」「ヤダァ!!」「っ……!?」
パニックが教室中を広がる。近くの生徒はあからさまに机を遠ざける。お弁当を閉じ、そそくさと教室を後にする生徒がいる。貰いゲロをしそうになり、表情を歪めるものがいる。あからさまな嫌悪の視線を投げかけるものがいる。
その中心地で、綾佳は周囲のことなど意識する事も出来ずに、苦しそうにえづいている。絵梨那は、少し距離をとりながら恍惚とした表情でじっと綾佳を見つめている。夕子は口許を押さえて教室を飛び出して、ここにはいない。
そして、千鶴子はまだお弁当を手に持った姿勢で硬直していた。一体何が起きたのか、咄嗟に理解出来なかった。だが、脳よりも先に身体が反応した。
「ゲエェェァァ!!」
下を向いた千鶴子の口から吐瀉物がお弁当の上に零れ落ちる。二段重ねのお弁当箱のご飯だけが入っているお弁当箱。丁度、三分の一になったそのお弁当箱の中に、吐瀉物が広がりグロテスクな丼が出来上がった。更に行き場を無くし、溢れてスカートに落ちていく。
「ハァハァ……」
虚ろな表情で千鶴子は自分のお弁当を見つめている。
吐くものが無くなっても綾佳は口からポタポタと胃液を垂れ流し、時折苦しそうにえづいている。
そこへ、保健教諭がやって来た。教室に入り、あまりの光景に一瞬驚くが、そこはさすがに保健教諭である。すぐに気を取り直すと、周りの生徒に指示を与え、二人に声を掛ける。
「あなたたち、大丈夫?」
保健教諭に促されて二人は席を立つ。綾佳はその時に教室を見渡した。だが、絵梨那の姿は見えなかった。千鶴子は頼り無い足取りでふらふらと歩いている。だが、クラスメイトの誰もが手を貸そうともしない。綾佳は、そっと千鶴子に寄り添い、千鶴子が倒れないように気遣いながら保健室へと向かった。
「綾佳」
放課後、結局その後の授業を欠席した綾佳は荷物を取りに教室に戻って来ていた。
聞き覚えのある声に呼ばれて、綾佳は振り返る。
「真理原さん……」
予想通り、そこには絵梨那が腕組みをして立っていた。何故か、昼までの絵梨那よりも艶っぽさを感じるのは気のせいだろうか? じっと絵梨那は綾佳を見つめている。綾佳は無言で、視線をそらす。空白の時間が痛い、そう綾佳は思った。
「ぇ!?」
突然、絵梨那が綾佳の身体を抱きしめた。予想をはるかに上回る展開に綾佳はついて行けず、口を開いて呆然としている。綾佳は思った。目の前の女性の心の中は永遠に理解出来ないのではないか、と。けれど、絵梨那に抱かれて居心地の良さを感じ取った。
そして、気付いた。絵梨那は初めて綾佳の事を名字ではなく、名前で呼んだ事を。
「綾佳……」
再び絵梨那が名前を耳元で囁いた。昼の囁きでは恐怖を感じた綾佳だったが、今回の囁きにはくすぐったさを感じた。
「絵梨那……さん」
遠慮がちに綾佳も絵梨那を初めて名前で呼んでみた。これまでなら絶対に怒っていたであろう絵梨那は、何も言わない。
綾佳はこの時、予感めいたものを感じていた。絵梨那からもう逃れる事が出来ないのではないか、という予感を。