遊樹姫女学院中等部の正門に面した通り沿いに、観光バスが並んでいる。そのバスに次々と乗り込んでいくのは、昨日入学式を終えたばかりの新入生たちだ。これから彼女たちはこのバスに乗って、毎年恒例一泊二日の新入生合宿の宿泊地へ向かうのだ。
九条沙々羅はバスから少し距離を置く形で、少し緊張した青白い顔でその様子を見つめている。
沙々羅の脳裏に浮かぶのは、小学生の頃の嫌な記憶ばかり。
校外学習の際に何度か観光バスに乗る機会があったが、いつもバスで酔ってしまい車内、あるいは車外で戻す羽目になってしまった。また、酔ったことで体調が優れず、ほとんど何も参加せずに帰りのバスに乗ってまた吐いてしまったこともある。
それらの記憶は今も沙々羅の心に深い傷跡として残り、今では観光バスを目にするだけで胃袋をぎゅっと鷲掴みされるような感覚になる。
視線をバスから外し、ふーっと大きく息を吐く。
不安を見せつつも、それ以上の期待感でキラキラと輝く同級生たちが少し羨ましく思える。
沙々羅の方は、既に少し気分が悪い。そもそも、昨日の入学式で吐いてしまったダメージからまだ回復しきっていなかった。
それでも沙々羅は母に「大丈夫」と言い張って、学校へ来た。
新入生に配られたパンフレットに載っていた行事予定表には、新入生合宿について「友達作りの第一歩」と書いてあった。小学校時代、孤立しがちだった沙々羅にとって友達作りは切実な問題だった。だから休むことなんて出来ない。
だが、バスを前に甦る苦い記憶で、どんどん不安な気持ちが膨らんできて、とても一人でバスに乗り込むことは出来なくなっていた。
沙々羅の周りから、人は着実に減ってきている。みんな、もうバスに乗り込んでしまったのだ。そしてまた一人、沙々羅のすぐ傍にいた二人組がバスの中へと消えていく。
「どうかしたの?」
不意に誰かが声を掛けてきた。気品のある、落ち着いた柔らかな声には聞き覚えがあった。
沙々羅が声のした方を向くと、いつの間にか狗堂桐華が立っていた。
体育館で行われた出発式の直後、他の生徒は真っ直ぐにバスへと向かったのだが、各クラスのクラス委員と副委員は打ち合わせがあるために体育館に残っていたのだ。
「もしかして私を待っていてくれたの?」
桐華は嬉しそうに微笑む。
「あ……えっと、うん……」
咄嗟の事に沙々羅の返答は歯切れが悪い。
「ありがとう」
「え!?」
「嘘でも嬉しいわ」
「そんな……ごめんなさい」
「いいのよ、謝らなくて。私が勝手に早とちりしただけだから。それに理由はどうあれ、結果として待っている形になったのだから」
桐華の優しげな笑みに沙々羅も嬉しくなって表情が和らぐ。
「さあ、行きましょう」
桐華が沙々羅に手を差し伸べる。沙々羅はその手を取る。手のぬくもりがそれまでの不安を消し去り、先ほどまで地面に根を張ったようにピクリともしなかった足が、軽々と上がる。
二人はぎゅっと手を繋いでバスへと向かう。
入り口に立つバスガイドと運転席に座る運転手に挨拶をしてバスの中へと入る。
沙々羅は苦手なバスの臭いをなるべく嗅がないように、気をつけながら桐華に続いて座席へと向かう。最後の方に乗り込んだので、空いている席は少ない。そのうち、もっとも前の座席を桐華は選ぶ。
「さあ、どうぞ」
桐華はごく自然と沙々羅に窓側の席譲ってくれた。さりげない、桐華の優しさに沙々羅はとても嬉しい気持ちになった。
「ありがとう」
そう言って、窓側の席に腰掛けると、桐華もまた沙々羅の隣の席にゆったりと腰掛ける。
二人は目を合わせ、微笑み合う。
やっぱり来て良かった、と沙々羅は思う。
二人がバスに乗り込んですぐに、先生がバスに乗り込み全員乗っているかを確認するとバスは出発した。
目的地までは一時間半ほどの行程は、先生のお話、バスガイドによる運転手の紹介と挨拶と進んでいく。
「ちょっと行ってくるわね」
一段落したところで桐華が席を立つ。よく見ると、桐華だけではない。クラス副委員の子も、同じように席を立ち前の方へとやってくる。簡単な説明に続いてゲームが始まった。その手際の良さに、もしかして出発式の後の打ち合わせはこのことについてだったのかも? と、沙々羅は思った。
沙々羅もまた乗り物酔いの事を忘れたくて積極的にゲームに参加した。
最初はどこかぎこちなさもあった車内の空気が、ゲームの進行と共に和らいでいく。
一方で、沙々羅の状態は相反するように下降線を辿っていた。少しずつ口数も少なくなり、表情にも翳りが見える。
頃合いを見計らって桐華がゲームを終える。もうそんなものに頼らなくても、隣の子と仲良くお喋りしたりとすっかり打ち解けた雰囲気になっていた。
ゲームの司会を終えた桐華が席に戻ると、沙々羅は青ざめた表情で俯いていた。
「大丈夫? 酔ってしまったの?」
優しく問い掛ける桐華に、沙々羅はこくりと頷いた。
何か言いたかったが、口を開けると吐いてしまうのでは、と恐怖が過ぎる。
その様子を気遣わしげに見つめる桐華は、そっと用意されたゲロ袋を手に取る。
「あまり我慢しすぎるのも良くないわ。私が背中をさすってあげるから、いつでも吐いていいのよ」
そう言って、エチケット袋を沙々羅に渡す。
「ごめんな……っ、ぐぇ、おえっ……げええええっっ!!」
言葉は途中で途絶え、込み上げて来た熱いものが一気に沙々羅の小さな口から吐き出された。両手で広げたエチケット袋の中へと、ドロドロになった朝食がボチャボチャと流れ落ちる。
「おえっ……はぁはぁ……う、げええええええええっっっ!!」
更に大量の嘔吐物が勢いよく飛び出し、バシャバシャと音を立てる。
「いいのよ、吐いてしまって」
桐華は優しくゆっくりと沙々羅の背中をさする。
「はぁ……はぁ……ごめん、なさい……うえっ、げぇ、おええええ!!」
さすがに勢いは無くなってきたが、吐き気は治まらない。
苦しげに表情をゆがめ、目には涙が浮かんでいる。
吐く度に、びくびくと波打つ沙々羅の背中を桐華は優しくさする。
いつしか道は山道に入り、バスの揺れが大きくなる。
もう吐き尽くしたが、エチケット袋からの臭いと揺れで吐き気を催し、胃液だけを延々と吐き続けた。
恥ずかしくて、凄く苦しくて仕方がない。それでも、これまでの乗り物酔いとは違う。隣には桐華が座り嫌な顔一つせずにずっと背中をさすってくれている。こんなことは一度も無かった。それどころか、吐くからと隣に座ることを拒否されたこともあった。桐華の優しさが嬉しかった。けれど、この優しさがずっと続くのか、少し不安になる。
「はぁ……はぁ……本当に、ごめんなさい」
バスの速度が緩やかになる。いつしかバスは目的地に着いていた。バスが止まると、他の生徒たちは次々とバスを降りる。
「九条さん……立てる?」
最後に残ったのは沙々羅と桐華、それに担任の氷室薫子だけだ。
少しフラフラするが、なんとか立ち上がる。
沙々羅は桐華に支えられるようにして、バスの出口へとゆっくりと向かう。
バスを下りると、山の清涼な空気が心地良い。それでも、歩くのはつらい。
「あそこまで……」と薫子が言いかけた。
けれど、沙々羅はその場に四つん這いになってしまう。
「おええっ、げぇっ! はぁ……はぁ……」
胃液が少し。それ以外には何も出てこない。
再び、立ち上がり沙々羅はなんとかベンチに辿り着いた。
「狗堂さん。後は私に任せて、貴女は行きなさい」
「分かりました。後はよろしくお願いします」
そう言って桐華は、少し先の広場で既に始まっている入所式へと向かった。
沙々羅は薫子にもたれ掛かるようにして、その光景をぼんやりと眺めていた。施設のスタッフによる歓迎の挨拶。新入生の代表による挨拶。
程なくして式が終わると、桐華が他に二人の女子と共にこちらへやって来た。二人は、沙々羅と同じ班の女子で、鈴城真咲と古橋なつめと言う。
「九条さん大丈夫?」
声を掛けたのは眼鏡の似合う知的な雰囲気の少女、鈴城真咲だ。
「少し……休めば、大丈夫です」
「あんまり無理しちゃ駄目よ」
「ねーねー、九条さんの荷物って、これー?」
ぶんぶんと大きく手を振り、古橋なつめが大きな声で呼びかける。
こちらは髪の短い典型的なスポーツ少女といった風情だ。
「ええ、あれであってるわ」
まだ気分が悪く喋るのも辛そうな沙々羅に代わって桐華が答える。
「それだって。ちょっと、今行くから待って」
真咲はそう言って、なつめの元へと向かう。どうやら二人は、沙々羅と桐華の荷物を持ち運んでくれるようだ。
荷物を持たない桐華が、沙々羅に付き添って施設の中へと入る。玄関を抜け、班ごとに泊まる部屋へと各自が移動する。予定では、部屋で少し休息を取ることになっている。
「ここね……」
山吹の間、と書かれた部屋。そこが沙々羅と桐華、そして真咲となつめの四人の班の部屋だ。よくある民宿の部屋のような造りで、床は畳になっている。
「少し休んだ方がいいわ」
桐華の勧めで沙々羅は少し休ませてもらうことにした。
「ありがとう。それと、迷惑掛けてごめんなさい。」
座布団で作った枕に頭を乗せて、そう呟く。疲労からか、まぶたが重い。堪えきれずに目を閉じると、沙々羅はあっという間に眠りに落ちていった。