新入生合宿 シーン3

<<シーン2

夕食終えて、短いながらも楽しい自由時間を挟んで、天体観測の時間がやってくる。

その自由時間も残りが少なくなる中、食堂でやっと夕食を食べ終えたのが沙々羅だった。

沙々羅は早く食べるのが苦手だ。

急いで食べると気持ち悪くなって戻してしまったり、食べられたとしても消化不良を起こして食べたままの未消化の下痢となってほとんど出してしまうことが多い。

更に、食べる量も少ない。

一番最後に食べ終えたにも関わらず、その量は他の子の半分ほどだった。

沙々羅と、沙々羅が食べ終えるのを待っていた桐華の二人は、食堂を後にしてそのまま次の集合場所に向かうことにした。

食堂からほど近い、同じ本棟の玄関近くにあるホールが集合場所だ。二人並んで中に入ると、中には既に何人かの新入生の姿。そして、その後も次々と新入生たちが姿を見せて、集合時間を前にホール内に全員が集合していた。

クラスで整列し、点呼を取り、全員が揃っているのをあらためて確認すると『山の家』のスタッフが注意事項を伝達する。

静かに身じろぎもせず、その言葉に耳を傾ける新入生一同だが、心は既に屋上へと向かっている者も少なくない。

「それじゃあ、屋上へ移動しましょう」

スタッフも心得たもので、あまり長々と話はしない。すぐに天体観測を行う屋上へと、移動を開始する。階段を上り、二階、三階、そして屋上へと続く階段だ。

だが、その階段を上った先はまだ屋内だった。薄暗い照明に照らされた通路が5メートルほど続き、その向こうにドアが開け放たれている。

通路の右手には、資材室と書かれたプレートの掲げられた部屋がある。中の照明は落とされているが、通路からそそぐ弱い明かりで、ガラス窓越しに部屋の中の様子をわずかに見て取れる。そこには今宵、出番のない数台の天体望遠鏡が静かに佇んでいた。

一番先頭を歩いていた新入生たちが、ついに屋上に続くドアに辿り着き、開け放たれたドアの向こう側へと足を踏み出すと、歓声が響きわたる。

「すごい!」「綺麗……」「きゃあああっ!」

それまでにも、日が暮れてから外を見る機会もあったにも関わらず、こうして天体観測という名の下に夜空を見上げると、より強烈な感情が込み上げてくる。

「足を止めないで。屋上に出てください」

そう声をかけないと、誰もが夜空に目を奪われて足を止めてしまう。

沙々羅と桐華もまた、屋上に出た瞬間目の前に広がった、姫城市内とは全く違う深い闇と見たこともないほどの無数の星の煌めきに圧倒される。

「本当に凄いわね」

「うん。綺麗……」

沙々羅と桐華。二人もまた、そう呟くしかなかった。

屋上に新入生全員が揃うと、まず始まったのが星座と神話の話だ。はるか遠い古代の人々が、星々に託した物語をスタッフの人が慣れた調子で語ると、夜空はあっと言う間に映画のスクリーンに早変わりだ。

それが終わるといよいよ天体望遠鏡の出番だ。

月に北極星。北斗七星に春の大三角。

肉眼とは全く違う世界がレンズの向こうに見える。

しかし、一つ困ったことがあった。

それは寒さだ。

この時期の山はまだまだ夜になると冷え込む。それに加えて土砂降りの雨の影響で、気温はぐっと下がって吐く息も白い。

「寒い?」

桐華の横で寒さに震えている沙々羅の様子が気になって、桐華が声をかける。

「ん……大丈夫」

そう返って来たが、とても大丈夫そうには見えない。けれど気丈に振る舞おうとする沙々羅に対して、それ以上は何も言えなかった。

出来ることなら、沙々羅の小柄で華奢な身体を後ろから抱きしめて、暖めてあげたい。不意にそんな衝動に駆られて桐華は少し驚いた。

でも、そういう感情は嫌いじゃない。むしろそのような感情の芽生えが嬉しかった。

けれど、いきなりそんなことしたら、きっと沙々羅はびっくりするだろう。

まだ早い。もう少し、二人の心の距離が近付かないと……。

沙々羅のことは心配だが、今は天体観測に集中しよう。そう思い直して夜空を見上げた瞬間、それは起こった。

一条の光が夜空を駆け抜ける。

流れ星だ。

「み、見た今の!」「凄い凄い」「なになに、どうしたの?」「流れ星なんて初めて見た!」「えー、うそ!見逃した!」「やだ、願い事するの忘れた!」

興奮の坩堝と化した屋上。沙々羅と桐華もまた、周りほど派手に騒ぎ立てはしないが、突然の神秘的な光景に興奮を隠せない。

「綺麗……」

「本当ね。流れ星なんて初めて見たわ」

「私も……」

「ねぇ九条さん。何かお願いした?」

「えっ。ううん、急だったから余裕、無かった」

「一瞬だったものね」

「あの……狗堂さん、は?」

「私? ふふ……秘密」

「そ、そうだよね……」

まさか、九条さんともっと仲良くなれますように、と願ったなんて、とてもじゃないけど言えない。

「私もお願いしたよー!」

二人の間にニコニコと笑顔で、割り込むように現れたのはなつめだ。

「真咲がもっと私に優しくしてくれるように、って! あいたっ!! ちょっと、いきなりチョップは酷い!」

「願う前に自分の行動を見直しなさい。そしたら、自然と優しくなるわ」

そう言って真咲がなつめの後ろから姿を見せる。

「ごめん。無理。だって私、真咲が怒るの好きだから」

「はぁ……全く」

真咲は呆れて少し芝居がかった仕草で溜息をつく。

二人とはバスに乗ってから、まだ一日も経っていない。それでも、二人のこういったやりとりは何度も繰り返されている。もちろん、それで本当に険悪な空気になることはない。不思議な関係だ。

「えーっと、それじゃあそろそろ、まだまだ星空見ていたい気持ちは分かりますが、そろそろ時間です」

誰もが名残惜しそうに何度も夜空を見上げながら、一人また一人と屋上を後にする。

寒さに震えながら集合場所のホールに戻ると温かいお茶が待っていた。温かいお茶を飲み、暖房の暖かさに包まれながら、未だ興奮冷めやらぬ様子で会話は自然と盛り上がる。

少し時間も経って、身体も暖まってきた頃、教師が一声掛ける。

「この後はクラスごとのミーティングです。そろそろ移動してください」

その言葉に、コップに残っていたお茶を飲み干した者から先に移動を開始する。

沙々羅と桐華、そしてなつめと真咲の四人もすぐにミーティングルームに向かう。

その途中でも、沙々羅はまだ少し寒そうな様子を見せ、桐華はそのことが少し気になった。

ミーティングルームに入ると桐華は、沙々羅のそばから離れることになる。クラス委員である桐華が一日のまとめとなるクラスミーティングの司会を務めるからだ。

けれど、そうして少し離れた場所から見ることで、見えなかった部分も見えてくる。

なつめと真咲の二人の横に座る沙々羅の表情は、少し俯き気味とあって、さらさらとした長い黒髪に隠れて伺い知ることは出来ない。それでも時折、寒さに震えるような仕草を見せる。

もしかして、表情や顔色から、体調が良くないことを気付かれてしまうことを、恐れているの?

そんな風に桐華は思う。

沙々羅の方への注意を怠らず、それでも桐華は淀むことなく器用に司会をこなしていく。

その最中、不意に沙々羅が顔を上げる。少し潤んだ熱っぽい瞳が、桐華の方を真っ直ぐに見つめてくる。わずかに桐華の言葉が途切れ、訝しがった担任の薫子が「狗堂さん?」と呼びかけて、桐華は慌てて言葉を続ける。

その後は粛々と進み、しばらくして終わりを迎える。これでこの日の日程は全て消化し、後に残るは消灯時間までの自由時間だけだ。

誰もが笑顔で席を立ち、次々と楽しげな会話と共にミーティングルームを後にする中、沙々羅たちも立ち上がりそこに桐華も合流する。

「九条さん」

足を止め、桐華は沙々羅を見下ろす。

「えっ……!?」

手を伸ばし沙々羅の前髪をかき上げると、桐華は少し腰を落とし顔を近付ける。桐華の額と沙々羅の額がそっと触れ合った。

「少し熱があるわ」

体温計を見つめてそう言ったのは『山の家』に常駐している保健医だ。

ここは本棟にある保健室。今は保健医と沙々羅、それに桐華と担任の薫子の四人だけだ。

保健医から体温計を受け取りそこに表示された数字を確認する。そこには三十七度七分と表示されていた。

「そうね……今夜は先生と一緒に寝た方がいいかしら」

薫子の言葉に沙々羅は落ち込んだ様子を見せる。

「あの……」

桐華が口を開く。

「私がついていますから、九条さんを私たちと一緒に寝させてください」

「でも、ねぇ……」

思案顔の薫子。

「お願いします」

桐華はそう言って、深々と頭を下げる。

「お、お願いします!」

慌てて沙々羅も同じように頭を下げる。

「先生、負けですね」

「そうですね」

苦笑する保健医に、薫子はどこか嬉しそうに答えた。

「狗堂さん」

「はい」

「九条さんのことは貴女に任せます」

「分かりました」

「九条さん」

「はい……」

「何かあったら、すぐに狗堂さんに言うこと。無理に我慢したり、そういうのはダメよ」

「はい」

「それじゃ、もう行っていいわ」

「失礼します」

二人は綺麗に声を揃え、保健室を後にする。

「良かったわね」

「うん。あの、狗堂さん……」

「なに?」

「ありがとう」

少しはにかみながら、嬉しそうな沙々羅。桐華もその表情に嬉しい気持ちになる。

「消灯の時間です」

そう言って薫子が部屋に姿を見せる。

「九条さん、体調はどう? 何かあったらすぐに言ってね」

部屋の出入り口に一番近い布団に既に潜り込んでいた沙々羅に言葉を掛ける。

「狗堂さん。九条さんのことお願いね」

「はい」

照明が落とされ薫子が部屋を後にする。

「もう眠ってるわ、この子……」

そうぽつりと呟いたのは、真咲だった。

この子。それは、つい先ほどまで「今日は徹夜する」と宣言していた、なつめのことだ。

その後、すぐに静寂に包まれる。

けれど、沙々羅は眠ったわけではない。

先ほどから少しムカムカして来て、眠れない。

沙々羅の脳裏には、忌まわしい記憶が蘇る。

それは小学校六年の修学旅行での出来事。

この日のような山道ではなく、左右への振り幅こそ大きくなかったものの、朝から長時間の電車とバス移動は乗り物が苦手な沙々羅にとっては過酷なものだった。

朝食を吐き尽くし、お昼ご飯は受け付けず、最後の方は涙を流しながら胃液を繰り返し吐き続け、ぐったりとした状態で夕方には宿舎に到着した。

少し落ち着いて夕食は少し食べることが出来たが、この日と同じように熱を出してしまい、教師たちが寝る部屋でその夜を過ごすこととなった。

女性教師の寝る部屋の一角に布団を敷いて横になる。

「洗面器、ここに置いておくから。何かあったら隣の部屋にいるから、すぐに言いなさい」

沙々羅の枕元に洗面器置いて、女性教師は部屋を出ていった。

隣の部屋では教師たちが、子供たちを見張るという任務から解放されて、少し気分が良くなったのかお酒を飲んで盛り上がっていた。

一方の沙々羅は、熱だけでなく吐き気やお腹の痛みも感じ始めていた。トイレに行きたいけれど、気持ち悪くて起きたくない。そんな状況がしばらく続く。

しかし時間の流れは残酷で、一分一秒と進むごとに具合は悪くなる一方だ。

ぎゅるぎゅるとお腹は唸り声をあげて、痛みに沙々羅は身体を丸めてお腹を押さえる。

「んっ……!」

これ以上我慢は出来ない。

そう思って、沙々羅は起きようとする。

ごぼり。

上半身を起こした途端に、胃がびくんと不快な痙攣を起こし、次の瞬間熱いものが一気に込み上げて来た。

「んんっー!」

口いっぱいに広がる熱い胃の内容物を、なんとか吐いてしまわないようにと手で押さえて、沙々羅は体勢を変えて洗面器を覗き込む。

「げええええええぇぇぇ!!」

必死に我慢した分、勢い良く沙々羅の口からドロドロの熱い胃の内容物が噴出する。洗面器との距離が近すぎたのか、それとも勢いが良すぎたのか。ビシャアアアアアアアアと音を立てた沙々羅の嘔吐物は、洗面器から飛び出して周りにも無数の染みを作る。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

目に涙をためて、苦しそうに肩で何度も息をする。

沙々羅は下半身をモゾモゾと動かして、なんとか四つん這いの体勢を作る。

苦しげに開いた沙々羅の口からは、ネバネバとしたものが糸を引き洗面器に落ちていく。

「はぁ……はぁ……」

お腹の方もギュルギュルと唸り、便意も切迫したものとなっているが動けない。吐き気が強く、立つことは出来ない。

吐き尽くして、吐き気が治まるまでトイレには行けそうもない。そして、それまで我慢する自信は全くなかった。

「ぐっ!!!」

再び猛烈な吐き気が沙々羅を襲う。

「おえっ、げぇ……はぁ、うぅぅ……げええええええっ!!! ごほっ、ごほっ……」

洗面器の中にバシャバシャと汚らしい音を立てながら、沙々羅は絶望的な気持ちに襲われて、思わず目をぎゅっと閉じてしまう。

嘔吐した拍子にお腹に力が入ってしまいドロドロの下痢がお尻の穴から噴き出したのだ。

熱くぬるぬるとした気持ちの悪い感触と、下痢特有の臭い。更にこれまでに吐いた、嘔吐物の臭い。

沙々羅は更に気持ち悪くなってしまう。

「げええぇぇ、おえ、げっ……ごほっ、はぁ……はぁ、おえぇぇ、げえっ……」

さすがに吐くものはなくなってきたが、えずくのは止まらない。そしてえずくたびに、ブジュブジュとお尻からは下痢が噴き出し、下着もパジャマ替わりのジャージのお尻部分もすっかり下痢でグチャグチャだ。

「はぁ……はぁ……」

上からも下からも、全て出し尽くしてやっと落ち着いて来た。

「片付けなきゃ……」

沙々羅はフラフラしながら、立ち上がろうとする。

嘔吐と下痢で消耗し、熱も高くなって来ている状態でそれは無謀なことだった。

不意に視界が揺らぐ。

「あっ……」

沙々羅の意識はそこで途切れた。

忌まわしい記憶が蘇り、沙々羅は少し気持ち悪くなる。

どうしよう。お手洗いに行こうかな?

まだ少し余裕は感じている。それは、あの日ほど熱が高くなく、また下痢もないからだろう。

いつ、どのタイミングで行くか。それはとても難しくて重要なこと。

早すぎると、長時間お手洗いにこもることになる。これは暑い時期や寒い時期には身体への負担も大きく、余計に具合が悪くなったりすることも少なくない。

一方でギリギリまでの我慢には、常に失敗の危険性がつきまとう。特に上体を起こしたり、立ち上がったりする時が危険だ。急に込み上げてくる可能性が高い。

しばらくすると、吐き気が徐々に強くなってきた。

そろそろ行った方がいいかな?

そう判断して、沙々羅は身体を起こす。けれど、身体を起こすと少し嫌な予感する。思った以上に、限界に近いような気配。

嘘!?急がなきゃ……。

隣では桐華が静かな寝息を立てている。薫子の言葉を思い出すが、ぐっすり寝ているところを起こすのは悪い気がして、沙々羅は一人でお手洗いに行くことにした。

他の三人を起こさないように、そっと静かに立ち上がり部屋を出る。

本棟から延びた回廊のようになった渡り廊下。その渡り廊下に隣接する形で、一定の距離を置いてログハウスを思わせる建物が並んでいる。これが宿泊施設だ。この中に沙々羅たちが寝ている和式の部屋。二段ベッドが向かい合う部屋。更に沢山の人が入ることの出来る大部屋などがある。

部屋の外は常夜灯の薄明かりに照らされた、静かで暗い廊下。部屋の中と比べると空気は冷たく、上着を持って来なかったことを少し後悔する。

あまりの静かさに、足音を立てることを躊躇われ、必要以上に忍び足になりながら、沙々羅はお手洗いへと急ぐ。

他の班が寝ている部屋の前を通り、お手洗いが見えてきた。

もうすぐ、と安心したその時。

「ぐっ!!」

急に胃がビクビクと脈打ち、熱いものがゴボゴボと込み上げてくる。とっさに手で口を押さえて、沙々羅は立ち止まる。口の中一杯に広がった、胃の内容物を出してしまわぬように、と。

なんとか吐くことは我慢出来たが、飲み込むまでには至らない。このまま、なんとかお手洗いに行くしかない。そう判断して、沙々羅は再び歩き出す。

けれど、口をパンパンに膨らました状態で我慢し続けるのは難しい。少しずつ、口からドロドロとしたものが漏れ出す。それは、沙々羅の口を押さえる手の中に溜まり、そこから更に行き場を失って足下へと落下する。

沙々羅の歩いた後には吐いたものが点々と続いていた。

なんとかお手洗いに辿り着くと、照明を点けてスリッパを履いて個室へと向かう。いつもは出来るだけ奥の個室に入るところだが、今はそんな余裕はない。一秒でも早く、口の中のものを吐き出してしまいたい。

「っ!!」

個室のドアを開き、中へと入ったその時、再び激しい吐き気に襲われる。

「ごほっ!!」

熱いものが再び込み上げ、沙々羅は堪えきれずに勢いよく胃の内容物を盛大に噴出する。とっさに手を口から離したため、着ている物を汚すことは回避出来たが、丁寧に下ろされた洋式トイレの蓋の上にビシャアアアと音を立ててぶち撒けてしまうこととなった。

「はぁ……はぁ……」

目にはうっすらと涙を浮かべ、苦しそうに肩で息をする。

それでも、まだ吐き気は強く、また込み上げて来そうで汚れた手で、蓋と便座をゆっくりと持ち上げる。

ガチャ……。

その時お手洗いのドアが開く音が聞こえた。

誰かがお手洗いにやって来たのだ。

慌てて個室に飛び込んだこともあって、沙々羅は個室のドアを閉めていなかった。

閉めなきゃ!

そう思うが、動けない。

「ぐぅ、え、おぇ、げええええっっ!!! おえっ、げほっ!!!」

再び激しく込み上げてきて、便座の中へとボチャボチャと水音を立ててしまう。

「はぁ……げぇ、ごほっ、おえぇぇ……」

嘔吐が止まらず、動くことの出来ない沙々羅。そして迫り来る足音。

「九条さん、大丈夫?」

後ろから聞こえて来たのは桐華の声だ。

ふわりと何かが後ろから背中に掛けられた。

「その格好じゃ寒いでしょ」

桐華が羽織ってきた上着だ。

「ご、ごめんなさい……」

「構わないわ」

そう言って桐華の手が沙々羅の背中に触れる。

「えっ……?」

「背中をさするわ」

桐華の手が優しくゆっくりと沙々羅の背中をさすると、また吐き気が込み上げてくる。

「げえええええっっっ!!!

沙々羅の背中がびくんと脈打ち、激しく嘔吐する。

「はぁ……はぁ……うっ、おえっ……おぇ、げぇ、ごほごほ……」

さすがにもう吐き尽くしたのか、何も出てこない。それでも気持ち悪さは相変わらずで、何度もえずいてしまう。沙々羅が完全に落ち着くまでには、まだしばらくの時間が必要だった。

「どう、落ち着いた?」

「うん。ありがとう……」

桐華に支えられて沙々羅は立ち上がる。少しフラフラするがなんとか大丈夫そうだ。

「後始末しなきゃ……」

随分と周りを汚してしまった。恥ずかしくて情けない気持ちでいっぱいだ。

「後で私がやっておくわ」

「え、でも……」

さすがにそこまでしてもらうのは気が引ける。

「気にしなくていいのよ」

「でも……」

「九条さんに今必要なのは休息よ。後は私にまかせて……さあ、行きましょう」

そうして桐華に支えられ、半ば引っ張られるようにして沙々羅は外に出た。男子トイレ女子トイレの丁度中間に、歯磨きや顔を洗ったりするための洗面所がある。そこで口を濯ぎ、うがいをして二人は部屋へと戻った。

布団に潜り込む沙々羅。その横に、桐華は腰を下ろす。

「しっかり休んで早く良くなって」

そう言って、桐華は優しく沙々羅のとんとんと叩く。

疲労困憊だった沙々羅はあっという間に眠りに落ちる。

桐華は沙々羅が眠ったのを確認すると、再び部屋を出て行った。

夜が明ける。

少しずつ外は明るくなり、鳥たちがさえずり始める。

目を開けた沙々羅は昨夜の事を一番に思い出し、隣の布団に桐華の姿を探す。けれど桐華の姿は見当たらず、その向こうに眼鏡を外して静かに寝息をたてる真咲と、更にその向こうで豪快に布団を蹴飛ばしているなつめが見たこともない体勢で寝ている。

ゆっくりと沙々羅は身体を起こす。熱はすっかり下がったようだ。身体も軽く、吐き気や腹痛もない。

少し嬉しくなって、沙々羅は立ち上がる。

狗堂さん、どこに行ったのかな?

気になり沙々羅は部屋を出る。昨日のこともあって、まずお手洗いへと足を向ける。だが、中を覗いても誰も入っている気配はない。

ふと気になって、夜中に沙々羅が嘔吐した個室を見てみると、夜中のことが夢だったかのように汚れ一つ見当たらない。桐華の事は信頼していたが、これほど綺麗になっているのには、少し驚き、そしてとても嬉しく感じた。

お手洗いを出て下駄箱を確認すると、昨日沙々羅の横に並べて置いた筈の、桐華の靴が無くなっていった。

外?

まだ他の子はほとんど起きていないであろう時間に、外に出るという行為に少し緊張しつつ、渡り廊下に出る。

沙々羅たちの泊まっている建物は、丁度本棟の向かい側。木組の渡り廊下は左右に伸び、途中で直角に折れ曲がって本棟へと繋がっている。

そして本棟と渡り廊下で囲まれた場所がちょっとした庭園のようになっている。

そこに桐華の姿はあった。気配を感じてか、桐華が振り返る。二人は見つめ合い、桐華が軽く手を振って沙々羅の方へと歩き出すと、沙々羅も小走りに桐華の下に向かう。

「おはよう」

ふわりと、暖かな笑みを浮かべる桐華。一方の沙々羅は少し緊張した様子を見せている。

「お……おはよう!」

沙々羅の顔をじっと見つめる桐華の真っ直ぐな視線に耐え切れず、沙々羅は俯いてしまう。

「身体の方はもういいの?」

「え、う、うん……熱も、下がったと思う」

「そう。それは良かったわね」

「うん!」

沙々羅は満面の笑みを見せて、頷く。

「あの、狗堂さんは、何を?」

「え? ああ、ちょっと散歩をね。ところで……」

再び桐華が沙々羅をじっと見つめてくる。

「な、なにっ!?」

少し不安そうな表情を見せる沙々羅。

「ねえ、そろそろお互いを名字で呼ぶの止めにしない?」

それはすなわち、名前で呼べということだ。沙々羅の胸の奥で喜びがじんわりと広がって行く。

「嫌?」

沙々羅は思い切り首を左右に振って否定を表す。

「良かった。断られたらどうしようかと思ったわ」

「そ、そんなこと、絶対にないから」

「じゃあ、これからは沙々羅って呼んでもいいかしら?」

「う、うん。もちろん!」

「沙々羅……」

「な、何?」

「ねえ……私のことも、名前で呼んくれるかしら?」

ごくりと唾を飲み込む。意を決して沙々羅は口を開いた。

「き、桐華……ちゃん!」